2011年5月29日日曜日

将棋の魅力 先崎学さんが選ぶ本

■孤独な世界にほとばしる情念
 森内俊之挑戦者の3連勝で始まった名人戦は、羽生善治名人が1勝を返し、佳境を迎えている。

 いうまでもなく将棋は考えることが大事なゲームである。ひとつの局面を前に、棋士は、次の一手を考え、その裏に深く沈んだ指し手を読み、苦悩する。根を詰めて物を考えるというのは決して楽なことではない。
 今の世の中、人間が物を真剣に考えている姿を見られることは実はすくない。その、貴重な姿を集めたのが、棋士をモデルとした写真集『棋神』である。棋士の写真を長く撮りつづけている中野英伴氏のカメラは、我々棋士のもっとも棋士らしい、生身の人間が悶(もだ)え苦しむ表情を生き生きと写し出している。
 将棋の対局は静けさの極致にあるような世界であるが、この本における一枚一枚の写真からは、燃えるような人間の情念のほとばしりが見えてくる。
 ネットで中継されるのが当たり前となり、テレビカメラが対局室に入る時代であるが、カメラマンが撮れるのは、第一手を着手する時と、終局後に限られていることが多い。その理由は、撮られるという意識が思考のさまたげになり易(やす)いからだ。だから、棋士とカメラマンの間柄には、絶対的な信頼関係が必要である。中野氏は長くこの世界と付き合うことによって、棋士の信頼をかち取り、棋士のあけすけな生の表情を切り取ることができた。

●プロになるまで
 将棋のプロは百数十人しかいない狭い世界である。我々はちいさい頃から奨励会という修業機関に閉じ込められ、将棋一筋の毎日を送る。4人に3人が辞めていくという奨励会は厳しい世界で、原則として、そこを抜けなければプロになることはできない。
 『泣き虫しょったんの奇跡』は、長年奨励会に身を置いた著者の瀬川晶司氏が、年齢制限という壁にはばまれ、一度はこの世界を去りながらも、奇跡的に特別試験という例外によって、プロとなるまでを回想した本である。瀬川君がプロになったのは、本人の強い決意もさることながら、まわりの無条件で善人といえるよき人たちに支えられてのことだった。
 将棋の世界は常に盤上を前に孤独で、自分ひとりで自己完結するよりない。そんな世界の中、人々がつながり、ひとりの人間の夢を押し上げたという事実は同業者から見てうらやましい限りである。夢を目指すこと、そしてあきらめないことの重要性を痛感させられる。

●美しさを感じて
 さて、将棋のルールを覚えたが、次に何をしていいか分からないという人に是非おすすめなのが『1手詰(てづめ)ハンドブック』である。著者の浦野氏はプロ七段。詰将棋の名手としても知られている。1手詰であるから、1手、それで玉が詰む。上級者には簡単だが、覚えたての人にはなかなか詰まないだろう。しかし、考えているうちに、パズルの答えが頭に浮かんだ時のような、パッとひらめく感じが訪れるに違いない。そして、将棋の手筋の美しさというものも感じてもらえれば嬉(うれ)しい。
 将棋は玉を詰ますゲームだから、その詰の形の基本を覚えられる本著は、はじめの一歩にもってこいである。上達すれば、同じ著者の「3手詰」「5手詰」のシリーズにも挑戦していただきたい。
 ◇
せんざき・まなぶ 将棋棋士八段 70年生まれ。著書に『山手線内回りのゲリラ』『先崎学の浮いたり沈んだり』など。

2011年5月22日日曜日

もうひとつの東北 熊谷達也さんが選ぶ本

■“辺境”“忍耐強さ”だけでなく

 東日本大震災の発生から2カ月以上が経ち、「復興」という言葉がメディアで飛び交う頻度が増えている。しかし、被災地の現実がどうかといえば、復興には程遠い。津波に呑(の)まれた町の道路は、かろうじて車が通行できる程度になっただけだ。いまだに辺り一面が瓦礫(がれき)で埋め尽くされたままで、実際に目にすると、更地にすることさえ不可能なのではないか、と思えてしまう。そして、1万5千人余の死者に加え、いまなお9千人近くが行方不明で、肉親を捜し続けている人々がいる。そんな状態で「復興」という言葉を耳にしても、絵空事にしか聞こえない。

 震災発生直後から、私は、中央から発信される様々な言葉に違和感を覚えていた。たとえば、原発事故に端を発した食品や水の放射能汚染や計画停電、さらには買いだめの報道等。その瞬間にも、雪が降る寒空の下で人の命が失われつつあるというのに、見当外れにしか思えない東京での騒ぎは何なのだ?という憤りが、東北の被災地の人々のあいだには、確実にあった。同時に、このまま見捨てられてしまうのではないか、という不安が心の底に横たわっていた。

●中央視点に違和感
 震災発生直後はもちろん、いまなお、中央メディアが発している情報と被災地の現実には、確実にずれがある。たぶん、メディアには何の悪意もない。それは確かだろう。だが、不意打ちのように自然が私たちに突きつけたおびただしい死、という現実に、メディア自身が、まともに向き合うことができなかったのだと思う。それよりは、誰かの責任を追及できそうな原発事故に目を向けているほうが、はるかに楽なのだろう。発信する側も受け取る側も。
 考えてみれば、日常の中から死を隠蔽(いんぺい)しているのが、現代に生きる我々である。突然の累々とした死に、うろたえ、機能不全に陥ってしまうのは当然のことだ。そんないま、日本を代表する宗教学者、山折哲雄氏の『わたしが死について語るなら』は、私たちが立ち止まり、死の意味を改めて考えるためのテキストとして、多くのヒントを与えてくれる。読者一人一人が、今回の震災を自身の中で消化するための一助となるに違いない。
 もうひとつ、私の違和感やギャップの原因になっているのは、やはりいまだに中央からの視線は、東北を辺境として捉えているに違いないこと。たとえば、被災地や避難所での人々の映像とともに、「東北人の忍耐強さ」が、称賛の言葉として口の端にのぼることが多い。しかし、あえて皮肉な見方をするならば、旧来の、寒い、暗い、貧しい、というイメージのまま、中央が東北を見る目はほとんど変わっていない、ということでもある。

●深層に豊かな文化
 そんなステレオタイプなイメージを払拭(ふっしょく)してもらうために、あるいは、東北人自身が自らのアイデンティティーを取り戻すために、ぜひとも手にとってほしいのが、哲学者、梅原猛氏の『日本の深層』と、「東北学」を提唱して久しい民俗学者、赤坂憲雄氏の『東西/南北考』である。いずれの著書も、アプローチの方法論は違っていても、縄文及び蝦夷(エゾまたはエミシ)の豊かな文化を深層部分で受け継いでいるのが東北の真実の貌(かお)であり、それを足がかりとすることで、これまでとは違った日本の姿が見えてくることを示唆している。そしてそこにこそ、今後の本当の意味での「復興」の指針が隠されているに違いないと、私は思う。
 ◇
くまがい・たつや 作家 58年生まれ。仙台在住。著書に『邂逅(かいこう)の森』『銀狼王』など。

2011年5月15日日曜日

相撲はスポーツか 玉木正之さんが選ぶ本

■呑気に、融通無碍に考えたい

 新弟子死亡事件や大麻所持事件、横綱の暴行引退事件や野球賭博、そして携帯メール八百長事件……。不祥事続きの角界は信頼を回復できるのか?

 高橋秀実『おすもうさん』は筆者自らまわしを締めて土俵に上がり、力士や行司のナマの証言を集め、肌で感じた「呑気(のんき)でゆるやかな相撲の世界」を描いた秀逸なノンフィクション。
 明治時代には「待った」を54回繰り返し、仕切りに1時間37分かけたこともある。明治42年に国技館ができたときも「八百長」が横行。「呑気者同士ゆえの八百長。呑気こそ相撲の伝統」と看破する。しかし、そんな大相撲が、やがて「裸一貫褌(ふんどし)一丁で相手に(略)挑む。大日本帝国が敢行すべき『肉弾戦』」として「国技報国」に利用される。
 そして敗戦後はエスニックな魅力の行司や力士が進駐軍米兵の人気の的となり、柔道や剣道がGHQによって禁止されるなか、相撲は興行を再開。戦後の「スポーツ」として復活する。
 相撲の「正史」ともいうべき新田一郎『相撲の歴史』にも、「この融通無碍(ゆうづうむげ)、これこそが相撲であった」と述べられている。

■八百長は「悪」か
 中島隆信は『大相撲の経済学』で「八百長は本当に悪か」と問題提起し、「真剣勝負が増えることで(略)観客の目を楽しませる」なら「八百長を極力減らすようなしくみを考え」るべきだが「相撲のパフォーマンス向上にそれほど効果があるわけでもな」いなら「部外者が(略)目くじらを立てて非難する必要もない」と書く。
 相撲は、「呑気」に「融通無碍」に考えるべきものなのだ。
 風見明『相撲、国技となる』(大修館書店、1680円)によれば、明治の大相撲の「近代化」は「力士の芸人根性の象徴」だった観客の「投げ花(投げ祝儀)」や「桟敷での力士の接待」の禁止、「人情相撲(八百長)」の排除から始まった。
 そのような近代日本が否定した前近代の相撲は、江戸風俗研究家の三田村鳶魚(えんぎょ)の話をまとめた柴田宵曲(しょうきょく)編『侠客(きょうかく)と角力(すもう)』(ちくま学芸文庫、1365円)に詳しく、江戸期には相撲(や侠客)の世界が「アジール(聖域・避難所)」として機能したことがわかる。そして「晴天十日の小屋掛け興行」が、明治の常設館(国技館)での興行となったことを、「意気とか情味とかいふものを余所(よそ)にして、財布ばかり大事がる」として、江戸っ子は「折角(せっかく)出来上(あが)つた国技館を、しみつたれと罵(ののし)つた」という。
 しかし、時代は変わる。メディアが「八百長は許せない」と非難し、監視カメラの設置や携帯電話の持ち込み禁止で「大相撲のスポーツ化」が推進される。それを見て、世知辛い世の中……と思うのは私だけだろうか?

■日本文化として
 そんなときは飯嶋和一の名作『雷電本紀』(小学館文庫、730円)に描かれた雷電の豪快無双の活躍を読んで留飲を下げるのがいい。天明の大火で焼け野原となった江戸の町で、母親たちが次々と差し出す赤ん坊を抱きあげ、「厄払い」に励む雷電は、抑圧された民衆たちの閉塞(へいそく)感の象徴ともいえる「拵(こしら)え相撲」(八百長)を「鉄砲(張り手と突っ張り)」でぶち壊す。小説とはいえ、相撲が「スポーツ化」することなく「美しい日本文化」であった姿を味わえる。
 いや、『映像で見る国技大相撲』(全20巻、ベースボール・マガジン社)のDVDを見れば、「八百長」と騒がれた最近の大相撲も、実は素晴らしい名勝負だとわかるはずだが……。
  ◇
たまき・まさゆき スポーツライター 52年生まれ。近刊に『大相撲八百長批判を嗤(わら)う』(飛鳥新社)。

2011年5月8日日曜日

巨大災害と人間 矢守克也さんが選ぶ本

■断絶から回復するために
 東日本大震災は、言うまでもなく巨大災害である。巨大災害は、被害規模はもとより、日常性、つまりそれまでのつつがない暮らしに対する断絶が巨大だという意味で巨大災害である。この断絶を回復しようとして人も社会も悩み苦しむわけだが、中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会、2310円)と木村敏『時間と自己』(中公新書、693円)は、回復の方向性が二つの方向に切り裂かれうることを示唆している。

 一つは「立て直し」路線、もう一つは「世直し」路線である。日常からの断絶が巨大だからこそ、そこへ回帰しようとする「立て直し」の思いは、被災者を中心に切実だ。他方で、防災対策は言うに及ばず、エネルギー政策など、これまでの社会を抜本的に見直す必要、つまり、「世直し」を訴える声も大きくなる。この分裂は災害後の社会につきものだが、今回ほど、この点に関する社会的舵(かじ)とりが重要となるケースはあるまい。

●「想定外」忘れる
 抜本的な見直しと言えば、大震災後、「想定外」という言葉を頻繁に耳にするようになった。精神分析学的に見れば、用語の使用自体が巨大な断絶に対する精神的適応策となっている一面があるが、まずは原点に還って検討する必要がある。
 『三陸海岸大津波』、特に「明治二十九年の津波」を一読すると、今回の大津波と見まごう記述に満ちあふれていることに気づかされる。海抜50メートル近くまで津波が遡上(そじょう)した可能性、地震から30分間の行動が生死を分けたこと……。
 つまり「想定外」とは、文字通り夢想だにしなかったことではなく、逆に本来身近なことを「なかったこと」にすることではないのか。かつて、寺田寅彦は、「天災は忘れた頃にやってくる」と災害の風化を警告したとされる。しかし、「天災と国防」(岩波文庫『寺田寅彦随筆集第五巻』693円)の次の一節を見る限り、この警句は「災害は『想定外』を忘れた頃にやってくる」と、補足して受けとめるべきだろう。「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。……(略)……そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して……」。要するに、「想定外」とは、事実認識のエラーというよりも、私たちの態度の問題なのだ。

●総合的な態度を
 『津波とたたかった人』は、津波避難の物語「稲むらの火」で有名な浜口梧陵の伝記である。ただしここで注目したいのは、安政の南海地震津波の後、梧陵が被災した故郷で果たした役割である。梧陵は、被災者の雇用対策と防災対策を両立させた広村堤防の建設(技術者・実務者)、無償の被災者支援活動(ボランティア)、次代のリーダーの育成(教育者)など、今日別々に担われている活動に垣根を越えて関わる。防災が、一部の専門家や実務者のみが関わる閉鎖的な領域として囲われがちな今日だからこそ、その総合的な態度に学ぶ必要がある。
 この意味で、研究者を含め被災地外からの支援者が、被災者とどう向き合うかも、今後きびしく問われることになろう。この点、フィリピンのピナトゥボ火山噴火の後、現地のアエタ族と共に歩んだ文化人類学者の記録『噴火のこだま』が、秀抜な思索と実践のあとを提示している。同書を貫く問い「この災害にとって自分は第三者なのか当事者なのか、後者だとすればいかなる意味でそうなのか」。これは、今、私たち全員に突きつけられた課題でもある。
 ◇
やもり・かつや 京都大教授(社会心理学) 63年生まれ。著書に『防災人間科学』。

2011年5月1日日曜日

アラブの民衆蜂起 酒井啓子さんが選ぶ本

■次々と連鎖、底流に何が?

 昨年末、一露天商の焼身自殺をきっかけとして、チュニジア全土に反政府デモが広がった。23年間大統領職にあったベンアリが亡命したのが1月14日。その11日後にはエジプトで大規模デモが組織され、2月11日には30年のムバラク治世に終止符が打たれた。チュニジア、エジプトでの民衆蜂起を見て、イエメン、バーレーン、リビアと、次々にアラブ諸国に反乱の火の手があがっている。

 なぜ突然、アラブ諸国で民衆デモが盛り上がり、次々に連鎖しているのか。なぜエジプトで政権打倒が成功したのに、リビアでは内戦状態と化し、多国籍軍が介入する事態になったのか。
 こうした展開を予想していた中東研究者は、ほとんどいない。それだけ「想定外」の事件だったわけだ。これまで国内外の中東現代政治を専門とする研究者の多くは、もっぱら「なぜ中東で権威主義体制が続くのか」に焦点を当ててきた。
 そのなかで唯一、中東の民主化の展開に着目して各国の比較研究を続けてきたのが、大東文化大学の松本弘氏である。やや古くなるが、05年日本国際問題研究所編の『湾岸アラブと民主主義』は、実質的に氏がまとめた論文集で、湾岸産油国の政治体制とその変遷を知るには、最適の教科書である。

■各国を比較研究
 その後松本氏の研究は、他の若手研究者とともに、人間文化研究機構プロジェクト「イスラーム地域研究」のウェブサイト、「中東の民主化と政治改革の展望」にデータベースとして掲載されてきた。そこでは、東南アジアや中央アジアを含めたイスラム諸国25カ国を対象として、議会制度の改変、選挙結果や憲法改正などの過程が丹念に記述されている。ここで描かれる各国の民主化の蹉跌(さてつ)こそが、現在の反政府デモの高揚を説明しているのだ。このウェブでのデータベースをもとにした分析が、今の動乱を受けて急遽(きゅうきょ)出版されることになった。松本弘編『中東・イスラーム諸国の民主化ハンドブック(仮)』(明石書店)が待ち遠しい。
 一方で、チュニジア、エジプトで何が起こったのか、総勢38人の内外の研究者たちがビビッドに現状を論じているのが『現代思想4月臨時増刊号』(11年)である。「ジャスミン革命」直後に企画され、エジプト「革命」成立から2週間後にはすべての原稿が集まるという、書き手の熱意と興奮があってこそ編纂(へんさん)が可能だった本書では、歴史学、文学、政治学など、あらゆる分野の中東専門家が、進行中の「革命」を熱く論じる。

■柔軟な若者文化
 なかでも「革命」の歓喜が伝わってくるのが、エジプトでのデモに見られる若者文化、民衆パワーに触れた論文だ。デモのなかで多くのポップソングが生まれ、素人映画監督が撮ったデモ映像がユーチューブで流される。フェイスブックなどのネット技術が革命を成功させた、と強調されがちだが、その底流にはアラブ文化の持つ生き生きとした感情表現、欧米ポップスをふんだんに取り入れる柔軟性と多様性があることを忘れてはならない。関口義人編『アラブ・ミュージック その深遠なる魅力に迫る』(08年)は、そうした豊かなアラブの音楽文化を、伝統音楽からエジプト・ポップまで紹介する。イスラム、自爆テロといったステレオタイプなイメージを一掃し、今のアラブの若者たちの溢(あふ)れるエネルギーを伝えてくれる、好著だ。
  ◇
さかい・けいこ 東京外国語大学教授(中東現代政治) 59年生まれ。著書に『〈中東〉の考え方』など。
 

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