2011年6月26日日曜日

肉を食べる 森枝卓士さんが選ぶ本

■なぜ生食が受容されたのか モンゴルの草原。遠来の客のために屠(ほふ)ってくれた羊は、その場ですべて料理された。肉は焼いた石と搾乳缶に入れて、内臓は煮て。戸外が冷凍庫状態になる冬場は、解体した状態で保存されるが、夏場は殺したら、すぐに加熱して食べるものだった。
 モロッコの乾燥地帯。緑の谷間の集落の市場には、羊を1頭だけ屠ってぶら下げた肉屋があった。電気も冷蔵庫もないから、生かしておくことが保存法なのだ。肉はすみやかに料理する。
 ユッケによる食中毒で死亡者が出る状況に接して、かつて訪ねたあちこちの食が頭に浮かんだ。生の肉を食べる文化も、それこそユッケやタルタルステーキ、あるいは馬刺しなどのように、ないではない。が、たいていは加熱してしまう。
●消化助ける料理
 何故(なぜ)かという問題含めて、ヒトが料理をすることとは、どういうことなのかの広い問題に答えてくれるのが、『火の賜物(たまもの)』。
 すり潰し、切り刻み、加熱する料理という行為は、歯や胃腸で行う消化の外部化ではないか。世界各地の食の文化を眺めながら、そんなことを考えていたのだが、その私のぼんやりとしたイメージを形にしてくれていたのが、この本だった。
 ヒトの進化から料理するということ、食べることについて考えさせられることが多い。そして、消化器官の外部化を果たしているからこそ、免疫力も他の動物より弱くなり、生食が難しくなったのかと思ったりもする。
 ●日韓混合の文化
 肉食について、別の視点から、多くの示唆を与えてくれるのが、『歴史のなかの米と肉』。
 日本にかつてあった、肉食のタブーは如何(いか)に形成されたのか。それを中心に、狩猟と農耕、あるいは天皇制や差別の問題にまで。米を食べること、肉を食べないこと、食べることがどのようなことであるのか、目から鱗(うろこ)がぼろぼろと落ちる。
 50代の私が若い頃、焼き肉屋は現在のように一般的な食事の場ではなかった。特別な関係でなければ、男女で行く場所ではないという意識があった。
 家族が楽しむような場所に変わるのは、韓流ブームなどの影響もあるだろうが、技術としては、日本の企業が作った無煙ロースターの普及による。そもそも、焼き肉は日韓混合の文化である。朝鮮半島に発したとはいえ、日本で発達し、里帰りしたような部分も多々ある。
 あるいは、韓国の日本料理屋には、コチュジャンだれの韓国式刺身(さしみ)(フエ)の盛り合わせをビビンバのように混ぜて食べる、フエ丼がある。一緒にそれを食べていた韓国人の友に、「懐かしい味でしょう」と言われて、面食らったことがあった。
 そのあたりの複雑怪奇にして、興味深い関係については、『世界の食文化(1)韓国』が詳しい。刺身とフエの関係を思い、刺身の文化ゆえにユッケという生肉食も容易に受容したのかと思ったりもする。(相対的に食中毒などの危険性は低い)海魚の刺身と同じ文脈で理解し、いや、誤解したために、日本では生肉食が広まってしまったか。
 実は刺身とて、戦前までは海岸部に限定の文化であった。戦後の流通革命、冷蔵技術の発達等で全国で食べられるようになったのだが、あまりにも日常となり、その事実も忘れられたか。
 ともあれ、喉(のど)元過ぎてとならぬことを願う。生肉食は知れば知るほど高リスク。コインで食べられるようなものでは……。
 ◇もりえだ・たかし フォトジャーナリスト 55年生まれ。大正大学客員教授。著書に『食べもの記』など。

2011年6月19日日曜日

脱成長 広井良典さんが選ぶ本

■震災後の新たな社会構想を
 「脱成長」、あるいは従来の経済成長とは異なる形での豊かさの実現というテーマへの関心が高まっている。最近その契機を作ったのは、フランスの思想家ラトゥーシュの『経済成長なき社会発展は可能か?』だが、こうした議論は、近年再び注目されている「GDPに代わる経済指標」や、ブータンの「GNH(国民総幸福量)」などをめぐる話題とも呼応する。さらに原発事故や今後のエネルギー政策に関する議論が、新たなリアリティーを加えることになった。
 脱成長論には様々な系譜があるが、一つの源流はJ・S・ミルが1848年、『経済学原理』(岩波文庫・品切れ)の中で展開した「定常状態」論だろう。ここでミルは人間の経済はやがて成長を終え定常状態に達すると論じたが、興味深いのは、人々はそこで真の豊かさを得るというポジティブなイメージを彼が提起していた点である。当時はなお農業の比重が大きく、ミルの議論も(一国内の)「土地の有限性」を意識したものだったが、やがて工業化が加速し、植民地を含む自然資源の収奪が本格化する中で、ミルの定常状態論は経済学の主流から忘れられていった。ドイツの生物学者ヘッケルが「エコロジー」という言葉を作ったのもほぼ同時代(1866年)である。
●環境と福祉国家
 100年以上をへて、ミルの定常状態論に人類が地球規模で直面していることを指摘したのが1972年のローマ・クラブ『成長の限界』(ダイヤモンド社・1680円)だ。明らかに現代の脱成長論の古典だが、そのアップデート版がドネラ・H・メドウズ他『成長の限界 人類の選択』である。この系譜に近いのが、エコロジー経済学を展開するハーマン・デイリーの『持続可能な発展の経済学』(みすず書房・3990円。原題は「成長を超えて」)で、デイリーは早い時期から定常経済における重要問題は生産ではなく「分配」であると論じていた。
 雇用や労働のあり方も重要だ。モノがあふれる時代となって現代の先進諸国は構造的な「生産過剰」となり、“失業問題を需要拡大と経済成長によって解決する”という発想が限界に達し、他方で長時間労働が慢性化している。むしろ賃金労働を減らしそれをコミュニティーや自然に関わる活動に変えていくことが重要で、こうした議論のひとつの先駆がアンドレ・ゴルツ『労働のメタモルフォーズ』(緑風出版・3360円)だが、この流れはドイツの「労働の未来」論やヨーロッパでの「時間政策」など具体的にも展開している。
 従来の福祉国家も成長志向を強くもっており、脱成長論が既存の“右・左”の対立軸と交差するのはこのためだが、環境と結びついた福祉国家の可能性について、エッカースレイ『緑の国家』(岩波書店・6300円)が興味深い。
●ローカル化へ
 そして脱成長論は「ローカル化」という方向と結びつく。これに関しては、「懐かしい未来」論で知られるヘレナ・ノーバーグ=ホッジと辻信一の対談『いよいよローカルの時代』が読みやすい。最後に原発問題とつながるが、日本でのエネルギーの地域自給の可能性を「永続地帯」というコンセプトとともに実証的に論じているのが倉阪秀史編著『環境』(勁草書房・3675円)である。
 震災を踏まえた、従来型の成長モデルと異なる新たな社会構想がいま求められている。
 ◇
ひろい・よしのり 61年生まれ。『コミュニティを問いなおす』で大佛次郎論壇賞。

2011年6月12日日曜日

ねじれ国会 竹中治堅さんが選ぶ本

■衆院は参院に優越するのか

 菅内閣が退陣をめぐり迷走している。ここまで内閣が追い込まれることになった最大の理由は昨年7月の参院選挙で民主党が敗北し、国会が「ねじれ」――与党が参院で過半数議席を確保できていないこと――状態に陥ったことにある。このため、重要法案を成立させることが困難になってしまったのである。

 一般に衆院が参院に優越すると考えられている。だが、法案に対し参院は衆院と実質的に同じ権限を持っている。衆院が再議決によって参院が修正・否決した法案を成立させるためには3分の2以上の賛成が必要で、与党がこの議席数を確保することは容易ではないからである。

 与党が3分の2以上の議席を確保できた場合でも野党が参院で法案審議に抵抗すると憲法の規定により再議決できるのは61日目以降になり、法案の成立は大幅に遅れることになる。

 法案だけが問題なのではない。参院は閣僚に対し問責決議案を可決することができる。研究者や新聞論調の多くは問責決議案が可決されても辞任する必要はないという意見で一致する。しかし、これまで閣僚に対する決議案の可決は閣僚の交代に繋(つな)がっている。また、国会同意人事――日銀総裁任命など内閣や首相が人事を行う際に国会の同意を得なくてはならないもの――も悩ましい。参議院が同意しない人事は行えないからである。

■必要だった譲歩

 読売新聞政治部『真空国会』や『背信政権』には、内閣が「ねじれ」国会に苦労する具体例が数多く記されている。2007年8月より2009年7月にいたる時期、国会はやはり「ねじれ」ていた。『真空国会』では07年9月に成立した福田内閣が新テロ対策特措法案の成立や日銀総裁の任命に難渋する様子が描かれている。『背信政権』には菅内閣が閣僚に対する問責決議案などに苦しめられる事例が盛り込まれている。

 「ねじれ」国会に内閣はどう対処すべきなのか。『老兵は死なず』の中の野中広務氏の回顧は示唆に富む。98年7月の参院選後に成立した小渕内閣は「ねじれ」国会に直面する。この内閣で官房長官を務めた野中氏は98年秋の臨時国会で法案を成立させるため、野党の対案を大胆に「丸のみ」した過程を振り返っている。

 菅内閣が法案成立に苦しんだのは、衆院が参院に優位すべきという考えから抜けきれておらず、野党への譲歩が足りなかったからである。小渕内閣の経験を参考にすべきであった。

■両院で過半数を

 最後に憲法学者が参院の権限を踏まえて統治機構について近年展開する議論を紹介しよう。『現代日本の議会政と憲法』の中で高見勝利氏は安定した国会運営のためには与党が衆参両院で過半数を確保することが大切であり、このため日本では「議院」内閣ではなく「国会」内閣が成立していると論じている。

 只野雅人氏は『岩波講座 憲法4』所収の論文で憲法66条第3項が内閣が国会に対し連帯責任を負うと規定することに注目する。従来、内閣は衆院の信任だけで成立・存続しうると考えられてきた。しかし、この条文や参院の権限を踏まえて考えると内閣の存在は参院を含めた国会全体の信任に依拠していると考える余地があると重い指摘をするのである。

 参院の権限、位置づけについて理解が進むことで間違いなく政治過程全体に対する認識も深まるはずである。
    ◇
 たけなか・はるかた 政策研究大学院大学教授(比較政治) 71年生まれ。『参議院とは何か』で大佛次郎論壇賞。

2011年6月5日日曜日

アイドル戦国時代 太田省一さんが選ぶ本

■「がんばる」の共同体として

 「総選挙」とは、いまやアイドルのためにある言葉かもしれない。

 アイドルグループAKB48が毎年行う「総選挙」は、グループの人気上昇とともにメディアも大々的に取り上げるようになった。ファンによるメンバーへの人気投票なので、当然お遊びの側面もなくはない。しかしそれは、想像以上に真剣なものである。その結果により新曲に参加できる選抜メンバーが決まり、さらに1位になったメンバーには「センター」(メインの立ち位置)が約束されるからだ。
 「会いに行けるアイドル」を標榜(ひょうぼう)するAKB48の特徴は、ファンとの特別な近さである。彼女たちは、専用劇場での公演、イベント、そして握手会を通じて、ファンと「現場」を直接共有する。その中でファンは、「推しメン」(自分が応援するメンバー)の選抜メンバー入りの夢を自分の夢としてかなえるために、CDを買い、投票する。

●未熟さ肯定する
 そこに見出(みいだ)せるのは、「がんばる」の共同体である。メンバーは歌や踊りに「がんばり」、ファンもまたそのように一所懸命に努力するメンバーの応援を「がんばる」。「総選挙」は、メンバーとファンが一体となって「がんばる」目標をわかりやすく定めてくれる。
 そこには、未熟さの肯定がある。完成に達することよりも、成長するために「がんばる」プロセス自体に比重が置かれる。このあり方は、K—POPアイドルが与える完成された印象と対照的である。西森路代『K—POPがアジアを制覇する』(原書房、1575円)は、その違いを考察した良書である。
 一方、いま日本のアイドル界は、「アイドル戦国時代」と呼ばれる活況を呈している。ただその中にソロ歌手はいない。名前が挙がるのは、AKB48をはじめとしてグループばかりである。その事情は、『グループアイドル進化論』に詳しい。
 こうしたアイドルグループに、日本人は、なぜこれほどひきつけられるのだろうか。
 そこには、「学校」に思い入れを持つ日本人特有の価値観があるように思われる。実際、AKB48の制服的なコスチュームなど、アイドルと「学校」的なものの結びつきを感じさせるディテールには事欠かない。

●「学級」のように
 より正確に言えば、アイドルグループが体現するのは、学習の場としての「学校」というよりも、共同体としての「学級(クラス)」である。『〈学級〉の歴史学』によれば、近代日本において「学級」は、活動体験を共有する生活共同体、そして他「学級」との対抗意識を共有する一種の感情共同体として独特の発達を遂げた。それはアイドル的な「がんばる」の共同体の集団的特徴にそのまま重なるだろう。
 だが一方でそれは、テレビやネットなどメディアを通じて形成されるバーチャルなものでもある。そうしたメディアは、アイドルへの一定の距離を確保してくれるがゆえに、アイドルへの愛ゆえの優れた分析や批評を可能にしてきた(代表例として稲増龍夫『アイドル工学』=筑摩書房・品切れ、宇多丸『マブ論』を挙げよう)。
 しかし、直接的な「現場」重視のアイドルグループの勢いは、アイドルをいかに語るかという課題を改めて突きつけている。ここで挙げたものを含め、ここ最近のアイドル論の相次ぐ刊行は、アイドルを語る新たな文法の模索の表れでもあるだろう。
 ◇
おおた・しょういち 社会学者 60年生まれ。著書に『アイドル進化論』など。

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