2011年8月28日日曜日

電子書籍と本の未来 仲俣暁生さんが選ぶ本

■小さなメディアか「制度」か
 「文字を紙に刷って綴(と)じたもの」だった書物(本)が、「文字をディスプレー上に表示したもの」になる——ごく大雑把にいえば、後者が「電子書籍」と呼ばれるものだ。日本でも昨年からさまざまな企業がこの分野に乗り出し、「電子書籍元年」と喧伝(けんでん)された。「本」はこれからどうなるのか。その未来を考える手がかりとなる3冊を選んだ。
 アマゾンの「キンドル」や、ソニーの「リーダー」の成功で、アメリカでは電子書籍による読書が根づき始めている。その現状と背景を明快に語るのが『ルポ 電子書籍大国アメリカ』だ。出版エージェントとして米国の事情に通じている著者によれば、電子書籍は大活字本やオーディオブックなどと並ぶ多様な読書スタイルの一つであり、安価なペーパーバックに代わる消費形態という面が大きい。ただし紙の本が未来永劫(えいごう)にわたり安泰ということはなく、「紙の本」の読書はいずれ贅沢(ぜいたく)な行為になっていくだろう、とも。アメリカの出版人・書店人列伝としても読める1冊。
■読む行為の拡張
 日本でも、十数年前から「電子書籍」の取り組みがなされてきた。その草分け的存在として知られる企業の社長が、「元年」に至る紆余曲折(うよきょくせつ)を綴(つづ)った『電子書籍奮戦記』は、日本ではこれまで電子書籍ビジネスがいかに困難であったかを赤裸々に綴った記録でもある。過去の経験を踏まえ、電子書籍の本質は、物質としての「本」の代替ではなく、「読む」という行為の拡張であると著者は説く。本をインターネットと同様、誰もが発信できる〈小さなメディア〉として捉える視点で貫かれているのも、この本の特徴だ。
 電子メディアが本の世界を変えつつある事態を、「グーテンベルク以来の革命」と呼ぶことが多い。しかし「本」は印刷以前から存在したし、活版印刷が唯一の革命だったわけでもない。『知はいかにして「再発明」されたか』は、古代アレクサンドリア図書館から現代のインターネットにいたる、きわめて長い歴史的な射程のもとで、「知の制度」がいく度も移り変わってきたことを明らかにする。
 本の普遍的な価値を信じる人にとっては衝撃かもしれないが、どの時代においても、本は決して物語の主役にはならない。図書館、修道院、文字の共和国(手紙によるネットワーク)、大学、専門分野といった「知の制度」があってはじめて、本はその力を発揮できたのだ。著者によれば、現在最も有力な「知の制度」は、企業と大学が結びつき、ビッグサイエンスと呼ばれる大規模な実験科学を行う「実験室(ラボ)」である。
■単体でなく集合
 では次の時代はどうなるか。ネット上に巨大な電子図書館を構想するグーグルや、現在の知を遠い未来に伝える「一万年図書館」といった取り組みが、その萌芽(ほうが)として紹介される。『電子書籍奮戦記』でも「インターネット・アーカイブ」という団体の活動が最後に紹介されている。アーカイブとは、本だけでなく映像や音声、プログラムまでを保存する資料庫だ。これらに共通するのは、本を単体のモノとしてではなく、集合的なメディアとして捉える視点である。
 未来の「本」は、個人の声を伝える〈小さなメディア〉でありつづけるのか、それとも、「実験室」に代わる新たな「知の制度」となるのか。ミクロとマクロの両端を行き交うダイナミズムのなかに、「本」の本質があるように思えてならない。
 ◇なかまた・あきお フリー編集者 64年生まれ。文筆家、ウェブ上の「マガジン航」編集人。

2011年8月21日日曜日

小松左京を読む 東浩紀さんが選ぶ本

■娯楽と知の融合を実現
 去る7月26日に永眠したSF作家、小松左京。日本SFの創設者のひとりであり、戦後日本を代表するベストセラー作家だ。筆者自身、小学生時代からの熱心な読者でもある。そんな小松の代表作を三つ紹介したい。
 まずは1964年の『復活の日』。生物兵器として開発されたウイルスが事故で漏洩(ろうえい)、全人類がひと夏で死滅し、極寒の南極大陸と原潜乗組員だけが生き残る物語。——と要約するとハリウッド映画のような大味の印象を与えるが、実際に小説を読むと、最新科学を取り入れた設定の大胆さ、国際政治や分子生物学、社会思想まで自在に語る著者の博学、そして周到に配置された伏線に驚くだろう。
 とりわけこの小説で感銘を受けるのは、物語の最後、無人の世界に降り注いだ米ソの核の爆発が、結果としてウイルスを無力化し人類社会の復活を促すという逆転の展開である。冷戦下の死の技術によって滅びた人類が、もうひとつの死の技術により「たまたま」復活する。ここに込められたアイロニーには唸(うな)らざるをえない。
■哲学的な思弁も
 続いて66年の『果(はて)しなき流れの果(はて)に』。日本SFの最高峰と言われることも多い名作。若い理論物理学者が、ふとした機会で超常現象に巻き込まれ、過去から未来まで時空を超えた戦いに巻き込まれる——と記すとまたもやハリウッド映画のようだが、実際の読後感はまったく異なる。
 本書はじつは、物語のダイナミズムもさることながら、宇宙とは何か、知性とは何か、そして人間とは何かといった、随所に挿入される哲学的な思弁で名高い作品である。そしてまた同時に、父と子の対決の物語であり、主人公と恋人の時空を超えたラブストーリーでもある。時空を漂流するなかでテロリストとなった主人公の、「歴史を変えて、なぜいけない?」という叫びは、小松がなぜSFを書くようになったのか、創作者としての彼の態度表明のようにも聞こえ胸を打つ。
 そして最後に73年の『日本沈没』。タイトルどおり、日本が巨大地震で沈没するパニック小説。ベストセラーとなり映画化もされた。
 この小説もまた世間の印象と読後感が大きく異なる作品である。本作については日本沈没のスペクタクルばかりが注目されがちだが、実際に読むと、小説の焦点が日本人の強さにあることがよくわかる。本作に登場する政治家や官僚は、じつに勇敢に亡国の危機に立ち向かう。3月の震災後本書はまた売れていると聞くが、多くの読者は、現実の政治と『日本沈没』の政治の差異に暗澹(あんたん)たる気分になるのではないか。
■骨太な日本人論
 加えてまた、本作は骨太な日本人論でもある。日本人は日本列島を離れて日本人たりうるのか。物語の最後、日本沈没を予見した科学者が漏らす「もっとたくさんの人に」「この島といっしょに……死んでもらいたかった」という衝撃的な台詞(せりふ)は、読者に複雑な感慨を残すはずだ。小松はこの小説で、日本人にじつに大きな課題を投げかけている。
 以上3作品、いずれも小説を読むと、要約では伝わらない魅力的な細部が立ち上がってくるはずである。小松は、娯楽と知の融合を実現した希有(けう)な小説家だった。30年以上前の作品ではあるが、若い読者にこそ読んでもらいたいと思う。
 ◇あずま・ひろき 批評家・作家 1971年生まれ。著書に『クォンタム・ファミリーズ』など。

2011年8月7日日曜日

ヒバクシャ文学 川村湊さんが選ぶ本

■原爆と3.11体験を包括 「コレクション 戦争と文学」全20巻は、おそらく紙の大型文学全集として最後のものではないかと思われるが、その第1回配本『ヒロシマ・ナガサキ』(集英社・3570円)は、原爆文学の巻といってもよいだろう。だが、そこに川上宗薫とか美輪明宏といった作者名を見て、不思議がる読者もいるかもしれない。
 失神小説といわれる官能小説の第一人者だった川上宗薫と原爆のつながりは、奇異に思われるかもしれないが、彼が長崎で育ち、その初期に「夏の末」や「残存者」という、長崎における原爆被災に基づく短編を書いていたことを知れば、不審感はなくなるだろう。彼は直接には被爆していないが、原爆によって母と2人の妹を亡くした。また、美輪明宏は長崎で被爆している。2人の作品は、ヒバク(被爆/被曝)体験を描いた、当事者あるいは関係者の実体験の記録なのである。
■原民喜から遠く
 ヒバクとカタカナで書いたのは、主にアメリカの研究者たちによって「原爆映画」を「ヒバクシャ・シネマ」と呼ぶことがあるからだ。邦訳されている『ヒバクシャ・シネマ』は、「原爆の子」や「ゴジラ」、「八月の狂詩曲(ラプソディー)」に至るまでの日本映画を“ヒバクシャ・シネマ”と名付けている。
 これに倣えば、従来の原爆文学といういい方は、ヒバクシャ文学といい換えることができるかもしれない。それは単なるいい換えではなく、二つの積極的な意味を持つ。一つは、原爆投下による被災体験から遠く隔てられた時代や世代の文学活動をも含むことであり、もう一つはいわゆる3・11の原発震災に至るヒバク(被曝)の体験も(今後)包括できるようになるだろうからだ。
 『ヒロシマ・ナガサキ』にも収録されている青来有一の『爆心』に収められている短編は、「爆心」という地点と瞬間から、遠く、空間的にも時間的にも隔たったヒバクシャたちの現在を描いた小説である。「鳥」「釘」「貝」「石」といった作品には(「爆心」という題の作品はない)、ナガサキでのヒバクそのものよりも、その後を生きたヒバクシャ、あるいは関係者たちの「生」の重さが、それぞれ鳥や釘や貝や石などによって象徴的に表現されている。
 田口ランディの『被爆のマリア』も、いわばヒバクシャ文学の二世世代の作品集といえるだろう。その中の一編「永遠の火」は、結婚式のキャンドルサービスに“原爆の火”を使うことにこだわる父親と娘との葛藤を描いた短編だが、ヒロシマ・ナガサキにおける原爆のヒバク体験が、もはや記録でも記憶でもなくなった世代に、このヒバクという歴史的経験がどのように継承されるか、文学作品として表現されるかということが、正面のテーマとして主題化されているのである。
 原民喜、大田洋子の時代から、遥(はる)けく来たものだといわざるをえない。
■記憶装置の問題
 こうした文学作品に呼応する批評・研究として、川口隆行『原爆文学という問題領域』(創言社・2310円)と、これは文学研究ではないが、奥田博子『原爆の記憶』(慶応義塾大学出版会・3990円)を挙げておきたい。そこでは、文学や歴史という記憶装置自体の問題が問い直されているのである。
 『ヒロシマ・ナガサキ』に収録されている水上勉の「金槌(かなづち)の話」は、若狭の原発銀座における原発のヒバク労働者の記憶を刻み込んだ名編である。
 ◇かわむら・みなと 文芸評論家・法政大学教授 51年生まれ。近著に『原発と原爆 「核」の戦後精神史』。

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