2011年9月25日日曜日

数学本を読む 川端裕人さんが選ぶ本

■「憧憬」と「忌避」のあいだで 一般向けの数学書が、小さなブームだという。都内幾つかの大手書店で、平台陳列されているのを確認した。高等数学をかみ砕いて伝えるもの、中高の数学に再入門するもの、日常に密着した数学を詳述したもの、数学者評伝等、様々な系統がある。
 なぜ数学なのか。「数字は苦手!」と忌避する人が沢山(たくさん)いる中、数学にあらがいがたい憧憬(しょうけい)を抱く人も多いのかもしれない。ぼく自身そうだ。
■世界で最も確実
 数学的に証明されたことは、真理と言って良いという事実は格別に感じる。他の自然科学では、確からしく思えた説が別の説に乗り越えられることが常にありうる。その点、数学の進歩は人類の知的到達点であり、世界で最も確実なものだ。宇宙が数学的に記述でき、日常生活も数学なしには成り立たない現実を知るとさらに憧憬は深くなる。
 数学関連書を読むたび、思いを新たにする。『数学ガール』は、シリーズを通して「憧憬」を十全に表現してきた。素人に「フェルマーの最終定理」「ゲーデルの不完全性定理」といった高等数学の世界を垣間見させてくれるのも凄(すご)い。
 もっとも、高校までに習う数学すら、掘り下げれば予想もしない深みへと至る。『虚数の情緒』は、虚数という不思議な数をめぐり物理学まで見晴らす。熱い筆致で描かれる「想像上の数」i(虚数単位)が、まさに想像を超えて我々の日常に密着する様に驚かされる。
■かけ算に順序?
 日常と数学という括(くく)りなら『面白くて眠れなくなる数学』が読みやすい。クレジットカードにどんな数学が使われているのか? iPodで音楽を聞ける原理は? といった話題が満載で、我々の生活と数学が切っても切れないことを示す。
 数学一般書が「売れる」我々の社会は、数学的な思考に長(た)けているのか。実は心許(こころもと)ない。「憧憬」の前に「忌避」が立ちはだかり、数学嫌いの方が多いのではないか。高橋誠著『かけ算には順序があるのか』(岩波書店・1260円)を読むと、遠因のひとつは小学校教育かも、と感じた。「6人に4個ずつミカンを配ると……」という問題で「6×4=24」はバツ。「(1つ分の数)×(いくつ分)」と書くのが正しく「4×6=24」が正解。
 指導要領で決まっているわけではないが、教員が参照する指導書で強調されており「かけ算には正しい順序がある」と信じている小学校教員は多そうだ。児童が信じたまま大人になることも。証券会社の社員が「1株61万円」を「1円で61万株」と誤発注したいつぞやの事件も「正しい順序」にこだわるあまり混乱した、という説がある。
 本書では歴史や海外の事例をひき、「順序」が日本の小学校独特のものと明らかにする(つまり「正しい順序」はない)。とすると、導入時の教授法としてはともかく、いつまでも「順序」に拘(こだわ)るのはまずいのでは?
 中学に入ると抽象的な数学世界へいざなわれる。「順序」は問題にされない。しかし、直前まで「6×4は6個が4皿」「4×6は4個が6皿」と順序と意味に執着して教えられていたらどうか。具体物との対応を重視する算数から抽象的な数学へ、飛翔(ひしょう)するための助走路がない。「憧憬」に至る前に「忌避」に傾く人を増やしていないか。この懸念はうがちすぎだろうか。
 ◇かわばた・ひろと 作家 1964年生まれ。著書に『算数宇宙の冒険』『ギャングエイジ』など。

2011年9月18日日曜日

総理大臣とは何か 苅部直さんが選ぶ本

■孤独な首相官邸の現実
 まずは最近出た本から、平田オリザ・松井孝治『総理の原稿』をひもといてみよう。鳩山由紀夫首相(当時)のもと、内閣官房副長官・参与として演説の起草にあたった2人の証言録である。
 自民党がかつて作りあげた旧来の政権のスタイルを刷新し、首相と国民との間に新しい対話の回路をきりひらくこと。鳩山政権そのものに関する評価はともかくとして、そうした2人の努力は大事な意味をもっているだろう。そして同時に浮かびあがるのは、現行の制度のもとで首相官邸が置かれている孤独な状況である。「あとがき」で松井孝治は、それを自動操縦の飛行機で操縦席に座るパイロットにたとえている。
 従来ならば首相の国会演説は、各省庁から上がってくる成案を貼りあわせ、全体を調整すればできあがりであった。しかし、内閣主導でそれを一から作ろうとすると、それを十分にしあげられる人員も組織も、官邸には乏しいという現実にぶつかってしまう。
■一元化への努力
 行政官庁の縦割り組織に対し、首相が指導力をふるって決定を一元化する。そういうかけ声を口にするのは簡単だが、戦後政治の長い慣行をへて定着した構造を変えるには、まださまざまな試行錯誤が必要なのである。その努力の指針を、飯尾潤『日本の統治構造』が示している。
 これまでの、閣僚が各省庁の利益代表としてふるまう「官僚内閣制」ではなく、内閣自体において統合された政策を実現する、本当の意味での議院内閣制。そうした内閣を主導する首相の権力を制度において確立する努力が、今後しばらくは続くことと思われる。
 だが、「官僚内閣制」の問題は明治憲法の時代から由来するものでもあるし、それを打ち破ろうとする試みは戦前にすでにあった。そうした歴史上の沿革を知るには、御厨貴編『歴代首相物語』(新書館・2100円)が役にたつだろう。実は当方も書いている本だから拙稿は除外するとして、現在の政治にとらわれていると思いつかないような示唆を、明治時代以来の首相たちのプロフィルから得られるはずである。
 また制度はどうあれ、政権運営がどのようなものになるかは、結局のところ首相自身の個性に左右されるところも大きい。総理大臣の座についたあと、どのように状況を眺め、どんなきっかけで決断を下すのか。そのさいに誰に相談するのか。そうした首相の日常を詳しく伝える本として、細川護熙元首相の在任時代の日記である『内訟録』を、最後に紹介しておこう。
■個性発揮を期待
 これを読むと、首相の多忙さと孤軍奮闘ぶりに驚いてしまう。華やかな演説や外交の舞台に出る機会はごく一部で、続出する課題に対応するため多くの人と交渉する作業に、時間の大半が費やされる。首相が短い期間で交代することがよく批判されるが、辞めていったご当人たちは、心のどこかで「いっぺん首相をやってみてから悪口を言ってほしい」と思っているのではないだろうか。
 大震災などの事件がなかったとしても、総理大臣をめぐる課題はきわめて多い。新しい首相が苛酷(かこく)な業務をこなしつつ、いかに個性を発揮できるか。期待して見守っていたい。
 ◇かるべ・ただし 東京大学教授(日本政治思想史) 65年生まれ。『丸山眞男』でサントリー学芸賞、『鏡のなかの薄明』で毎日書評賞受賞。

2011年9月11日日曜日

9・11から10年 岩崎稔さんが選ぶ本

■哀悼の意味を根底から再考
 もう十年が経つ。確かに、それは鮮烈な光景だった。あの日、テレビ画面には、激しく煙をあげている超高層ビルが朝の光のなかに浮かんでいた。ほどなく一機の航空機がもうひとつのビルに激突して爆発する。最後には、ふたつのビルが法外な粉塵(ふんじん)を巻いて崩れ落ちていった。
 事件後、ほとんどあらゆる総合雑誌が特集を組み、緊急出版もあいついだ。乱雑に散らかるわたしの書架にも、関連する雑誌や書籍が溢(あふ)れている。藤原帰一編『テロ後 世界はどう変わったか』(岩波新書・819円)は、雑誌「世界」に掲載された坂本義和や西谷修らの論文をまとめたものだが、事件から受けたショックを思い出すには好適な一冊だ。テッサ・モーリス・スズキ『自由を耐え忍ぶ』(岩波書店・品切れ)には視野を一気に広げられた記憶がある。事件が世界中の知識人に引き起こした反応については、中山元『新しい戦争? 9・11テロ事件と思想』(冬弓舎・1050円)が、コンパクトな作りながら、今では索引としても貴重だ。
■非対称のなかで
 9・11の死者は特別な存在に仕立てあげられ、そこには無限の情動が渦巻いているのに、これに対する報復として始められた戦争の、数十倍になる死者には不気味なほどに鈍感な反応しかない。価値のある死者と無価値な死者がいるかのように。そんな非対称のなかで、9・11の死者を哀悼するひとびとの心情を尊重しながらも、そこに他の死者たちに対する感受性を回復させる難しい試みをジュディス・バトラー『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』が行っている。「悲しみの階層化」に対するバトラーの丁寧な批判は、哀悼することの意味を根底から考え直す哲学的思索である。
 文学にも達成がある。「コレクション 戦争と文学」の第4巻『9・11 変容する戦争』を通読すると、日本語で書かれた文学作品にもこれだけの厚みがあったのかと、あらためて驚く。事件当時の困惑を書いたリービ英雄の「千々にくだけて」など、宙づりの感受性も興味深いが、池澤夏樹の「イラクの小さな橋を渡って」や故米原万里の「バグダッドの靴磨き」などの作品は、9・11の最初の光景から見えない領域を開いている。
 出来事をアメリカや西側世界からではなく、その反対側の普通のひとたちの皮膚感覚で捉える機会は大切だ。リバーベンドという仮名のブログを翻訳した『バクダッド・バーニング イラク女性の占領下日記』とその続編『いま、イラクを生きる バグダッド・バーニング2』(アートン・1470円)は傑出している。といっても、何か特別な人物が、特別な立場から糾弾するのではない。たまたま英語が堪能なひとりの知的な女性が、持ち前の柔軟な感性と諧謔(かいぎゃく)によって、身のまわりで起きている欺瞞(ぎまん)と残虐をつぶさに報告している。そのひとつひとつが、わたしたちのステレオタイプを打ち壊し、世界で起こっていることが、支配者たちが取り繕っているものといかにかけ離れた現実であるのかを教えてくれる。
■映像の呪縛離れ
 強烈なイメージは、同時に多くを隠した。この十年を振り返ってみると、それは少しずつツインタワーの映像の呪縛から離れ、直後にわき上がった偏狭な憎悪や健忘症を、もっと複雑な歴史と記憶の文脈のなかで考え直す能力を鍛える過程であったと思う。
 ◇いわさき・みのる 東京外国語大教授(哲学・政治思想) 56年生まれ。共著に『21世紀を生き抜くためのブックガイド』など。

2011年9月4日日曜日

梅棹忠夫再読 加藤秀俊さんが選ぶ本

■学者としての業績に目を
 梅棹忠夫さんが亡くなって1年がすぎた。それを追憶する書物がいくつも編纂(へんさん)され、『知的生産の技術』や『文明の生態史観』などの旧著も版を重ねてきたようである。後輩の一人として、まことにうれしいことだ。
 だが、わたしからみて、いささか残念なのは梅棹さんへの評価が右にあげた2冊をはじめとするベストセラーに集中する傾向があり、かれの学者としての業績があまり知られてこなかったことだ。梅棹さんは確かにその鋭敏な目で時代を読む稀有(けう)の才能で世間をうならせたが、本来の研究者としてのすぐれた著作が忘れられがちなのである。
 だから、といって数式だらけの学術論文や調査資料を読むのがいい、というわけではない。まず、「わかりやすさ」を主義とした梅棹さんには、その専門をだれにでもわかるように書いた『生態学入門』という文庫本がある。これは本人がいう学生時代からの「長年の盟友」吉良竜夫さん(本年7月逝去)との共編。執筆者には中学生のころからの同級生、川喜田二郎さんもいて、交友のこまやかさがよくわかるし、これほど簡潔にわかりやすく「生態学」という学問を紹介してくれる本はめったにない。いまのところ品切れだけれど、古書店でも100円ほどで簡単に手に入る。あまり苦労せずに見つかるだろう。
■共同作業の名人
 梅棹さんは理学部動物学科の出身だったから「理学博士」。だが、かれは実験室的科学でなくフィールド・ワークの道をえらび、民族学、人類学にその関心をひろげた。そしてアフガンを舞台に『モゴール族探検記』を書いた。『梅棹忠夫著作集』のなかには600ページにおよぶ「中洋の国ぐに」という一冊があるが、この新書は「東洋」でもなく「西洋」でもない「中洋」の発見につながる重大な記録である。
 探検という作業は単独個人のものではない。それは複数の人間の呼吸のあった共同作業である。梅棹さんはそういう共同作業の名人だった。みずからすすんでチームをつくり、チーム・ワークのなかでみごとに役割をはたした。じっさい、世間のひとは梅棹さんを評して「孤高の天才」などというが、それはマチガイ。かれはけっしてスターではなかった。梅棹さんはつねに「チームの一員」だったのである。狭義の探検だけではなく共同研究もチームだった。かれのすべての著作はチーム、とりわけ今西錦司先生を中心とするチームによって、そのチームのために生まれたものだった、とわたしはおもっている。
 その梅棹さんが突然視力をうしなったのは86年春のこと。そこから20年以上の闘病生活がはじまるのだが、かれはその前後の事情を『夜はまだあけぬか』に冷徹に記録した。目がみえなくなったうえに、国立民族学博物館の館長職も退職。ということはチームからの予期せぬ離脱である。そのおおきな衝撃をのりこえるすさまじいエネルギーがこの本には充満している。ほんとうに強いひとだ、とわたしは感嘆した。
■虚無主義と通底
 生態学という学問は世界の姿をあるがままにみる学問である。そこには分類学も系統論も目的論もない。梅棹さんといっしょに、わたしはしばしば大徳寺の僧房(そうぼう)で和尚との問答に参加した。荘子についても語った。「あるがまま」をうけいれる梅棹生態学は、どうやら東洋の虚無主義と通じるところがあったようなのである。
 ◇かとう・ひでとし 社会学者 30年生まれ。近著に『メディアの発生』『常識人の作法』など。

時事問題

注目の投稿

もんじゅ廃炉のコスト監視を

 廃炉が決まっている高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)について、運転主体の日本原子力研究開発機構が計画をまとめ、原子力規制委員会に申請した。  2018年度に核燃料の取り出しを始め、47年度まで30年かけて撤去する。費用は3750億円の見込みで、通常の原子力発電所の廃炉に比...

このブログを検索

Google News - Top Stories

ブログ アーカイブ