2011年10月30日日曜日

向田邦子没後30年 鴨下信一さんが選ぶ本

■生活への美意識で虚飾を撃つ

 こんなに何事も忘れやすい世の中で、奇跡のように人々は向田邦子を忘れなかった。飛行機事故で逝って30年。本は、いまだ盛んに読まれている。
 世評の最も高いのはエッセーで、無類の記憶力で描いた昭和戦前の中流家庭の生活、家族のぬくもりは『父の詫(わ)び状』(文春文庫・530円)に収められている。しかし、この本は遠景に置いておこう。今となっては理想の〈平均的日本人の家庭〉に育った彼女は、そこから何を得て成人したのか。それは、昔はどこにでもあった〈生活の美感・美意識〉だったと思う。
 その美感、美意識で彼女は現在の日本人の虚飾、思い上がり、自己満足、一点豪華主義のような卑しさを撃った。たいていは週刊誌連載のために書いたものだが、決して低レベルではない。中でも最も辛辣(しんらつ)な「黒髪」「拾う人」「特別」などは『無名仮名人名簿』に収められている。

■“人間通”に磨き
 こうしたエッセーを書くことで“人間通”に磨きをかけ、小説を書きはじめる。
 小説となると本を選ぶのが難しい。「かわうそ」は屈指の短編で、直木賞受賞の主な理由はこれだろう。『思い出トランプ』(新潮文庫・420円)に収録されている。ただ、次席のものがこの本の中には見当たらない。独断では「鮒(ふな)」がいいが、これは『男(お)どき女(め)どき』(新潮文庫・380円)に入っている。この作品の結末は傑作だ。
 ここでは『隣(とな)りの女』を挙げる。「春が来た」が入っているからだ。
 ゆき遅れのOLがあまり素性を知らない男と知り合い、彼は家に訪ねてくるようになる。暗いことばかりだった家庭が明るくなって、皆が生き生きしてくる。母は本当に若返ってきれいになった。しかし彼は家に来なくなり、母は突然死ぬ——それだけの短編だが、まるで神話のようだ。亡くなった久世光彦やぼくのような彼女の周囲の演出家は不思議とこれが好きで、何回もドラマ化している。「寓意性(ぐういせい)と神話性」が向田邦子の小説の特色だろう。
 もっと大きな特色は〈笑いとユーモア〉で、何に限らず彼女の作品にはこれがある。「春が来た」の母娘の会話なども抱腹絶倒だ。『寺内貫太郎一家』(新潮文庫・460円)をはじめとするテレビドラマで彼女が人気を得たのも当然だろう。
 〈性〉の追求も特色のひとつ。大胆にも彼女はそれを、制約の多いテレビで試みた。ノベライズでもいい『あ・うん』などを入り口にして最後期の『阿修羅のごとく』(文春文庫・660円)『幸福』(岩波現代文庫・1155円)などに触れていただきたい。

■家族の形を予言
 また、彼女は〈今の家庭以外に、人は心を癒やされる場所を持ってはいけないのか〉と常識的な道徳を外れた生き方をドラマの中で示唆しながら〈家庭の形はそのままにはゆかないだろう〉と予言的に答えている。これだけでも家庭・家族観が単にノスタルジックなものでないことがわかる。家庭の崩壊を見据えながら〈それでも人は絆だけは求めるものだ、たとえその形態がどんなに変わろうとも〉。その意味で家族は続く、彼女はそういっているのだ。
 ◇かもした・しんいち 35年生まれ。演出家。TBSで、多くのテレビドラマの演出をした。向田邦子とは「寺内貫太郎一家」などでコンビを組んだ。著書に『名文探偵、向田邦子の謎を解く』(いそっぷ社・1680円)。

2011年10月23日日曜日

熟議民主主義とは 田村哲樹さんが選ぶ本

■話し合いで作られる意見

 熟議民主主義という言葉を見る機会が増えた。熟議民主主義とは、単に多数決で決めることでも、利益誘導政治でもない。各自の要求や利益は、話し合いを通じてその内容を吟味される過程で変化していく。その結果生まれる意見や決定は、よりよいものに、あるいは、より広く受け入れられるものになる。これが熟議民主主義である。
 「熟議の国会」という言葉もあるが、熟議民主主義への関心の多くは、一般市民による熟議にある。市民討議会や討論型世論調査と呼ばれるものが、その典型である。熟議で形成された市民の意見を届けることで、議会での決定がよりよいものになるという考えは、ユルゲン・ハーバーマス『事実性と妥当性』において提示された。篠原一『市民の政治学』は、ハーバーマスの考えをわかりやすく説明するとともに、現代社会の歴史的変容が市民社会における政治の拡大をもたらし、市民の熟議を求めることを論じている。

■参加をどう実現
 しかし、市民の熟議は、もちろん万能ではない。ジェイムズ・S・フィシュキン『人々の声が響き合うとき』(早川書房・2730円)は、民主主義の三原理として、熟議、政治的平等、政治参加を挙げ、いかなる民主主義の理論も、この三つをすべて満たすことはできないと言う。市民の熟議の場合、熟議と平等を満たすことはできるが、参加の原理を厳密には満たすことはできない。ある程度の参加は達成できるが、それはあくまで「ある程度」なのである。
 この難点を少しでも解消するためには、熟議をできるだけ多くの場所で行うことが大切となる。フィシュキンは、討論型世論調査に加えて、「熟議の日」という大胆な提案も行っている。これは、国政選挙前に祝日を設け、全有権者に各地域の討論会への参加を奨励するものである。他方、ジュヌヴィエーヴ・フジ・ジョンソン『核廃棄物と熟議民主主義』(新泉社・2940円)は、現在と将来の市民に深刻な影響を及ぼす政策の形成に様々なタイプの人々を包摂するには、様々なタイプの公開討論会を連続的に組織することが大切と説く。

■民主主義と余暇
 だが、討論会だけではなく、職場、地域、学校、家族などを民主主義の場所としてとらえ返すことも大切である。そこで起こる日々の諸問題もまた、そこに生きる人々の熟議によって対応・解決されるべき問題だからである。討論会だけが熟議民主主義というわけではない。
 そのために必要なことの一つは、対話の仕方を身につけることである。北川達夫・平田オリザ『ニッポンには対話がない』は、教育を主題として、対話とは何か、それをどうやって身につけていくことができるのかを簡明に伝える。もう一つは時間である。ベンジャミン・R・バーバー『〈私たち〉の場所』(慶応義塾大学出版会・2625円)は、民主主義にとって余暇がいかに大切かを教えてくれる。市民の熟議を考えることは、現在の社会の「忙しさ」を見直すこととセットでなければならない。
 最後に、熟議民主主義批判として、それが意見対立の重要性を軽視しているとするシャンタル・ムフ『民主主義の逆説』(以文社・2625円)を挙げておこう。熟議民主主義とは何かもまた、熟議の中で常に問い直されるべきと思うからである。
 ◇たむら・てつき 70年生まれ。著書に『熟議の理由』『語る 熟議/対話の政治学』など。

2011年10月16日日曜日

きのこの季節だ! 飯沢耕太郎さんが選ぶ本

■文学も音楽もすべて学べる

 秋はきのこのシーズン。そろそろ全国各地で、きのこ狩りの話題が聞こえてくるようになった。松茸(まつたけ)やしめじの味を楽しむのもよいが、ぜひ「書棚のきのこ狩り」の面白さも知っていただきたい。というのは、秋になるときのこをテーマにした本の出版も活気づいてくるからだ。

■文化的にも注目
 これまで「きのこ本」といえば、「毒きのこと食用きのこの見分け方」といった実用書か、生物学や生態学の観点から見た研究書が中心だったのではないかと思う。だがここ数年、きのこを文学、アート、ファッションといったカルチャー的な側面で取り上げた本がどんどん増えてきている。
 「きのこライター」を名乗って精力的に活動している堀博美の『きのこる』もそんな一冊。全111項目にわたって「きのこの基礎知識」から「きのこと世界の民族」まで、ありとあらゆる話題を網羅している。これを読破すれば、あなたも「きのこ博士」として尊敬されることは間違いない。

■身近にも「王国」
 グラフィック・デザインを本業とする鈴木安一郎の『きのこのほん』は、一見普通のきのこ写真集だ。だが、これら色とりどり、多種多様なきのこたちが、すべて彼が居を構える富士山麓(さんろく)一帯で撮影されたということに驚かされる。奇跡のような「きのこの王国」がわれわれのごく身近な場所にも存在している。その驚きを共有したいという鈴木の思いが伝わってくる。
 ウェブデザイナー、アーティストとして活動する、とよ田キノ子が監修した『乙女の玉手箱シリーズ きのこ』も楽しい本だ。きのこの魅力に取りつかれてとうとう「キノ子」と名乗るようになってしまった彼女は、世界中のきのこグッズをコレクションしている。それらがたっぷり紹介されているページをめくっているだけで、幸せな気分になってくる。きのこの形をしたベンチやシェルターのある「きのこ公園」など、必見の「きのこスポット」を紹介したページも役に立ちそうだ。
 このような「文科系きのこ本」の走りといえるのが、京都大学の数学教授で、洒脱(しゃだつ)なエッセイでも知られた森毅が編集した『キノコの不思議』(光文社文庫、品切れ)だ。中井英夫、水木しげる、種村季弘、白土三平など錚々(そうそう)たる面々がきのこの魅力をさまざまな角度から論じるエッセイや漫画を寄せている。圧巻は手塚治虫の珍しい小説「妖蕈譚(ようじんたん)」。僕はこれを読んで、あの奇妙なキャラクター、ヒョウタンツギがきのこの一種であることをはじめて知った。
 『キノコの不思議』にも素晴らしいきのこ画を掲載している画家の小林路子には『森のきのこ採り』(白日社・1890円)というエッセイ集がある。「一年のスケジュールをきのこ採り中心にセット」しているという彼女の、楽しくも物狂おしい日々が綴(つづ)られている。
 「きのこ狂い」といえば、現代音楽作曲家のジョン・ケージにとどめをさす。その彼の文章を集成した小沼純一編の『ジョン・ケージ著作選』(ちくま学芸文庫・1155円)には「音楽愛好家の野外採集の友」というエッセイがおさめられている。「人が茸(きのこ)に熱中することによって、音楽についての多くを学ぶことができる」。いや、音楽だけではなく文学も絵画も映画も、すべてがきのこから学べると主張したい。
 ◇いいざわ・こうたろう 54年生まれ。『きのこ文学大全』など、きのこにかかわる編著書多数。近著に『きのこのチカラ』(マガジンハウス)。

2011年10月9日日曜日

辛亥革命100年 丸川哲史さんが選ぶ本

■孫文の冷静なリアリズム 辛亥革命という歴史的事業の意義を日本の側からアプローチするとすれば、これに日本人が積極的に関与した史事から出発するのも悪くない。保阪正康『孫文の辛亥革命を助けた日本人』は、宮崎滔天や山田良政・純三郎兄弟などがいかに献身的に中国の革命に関わったかを分かりやすく叙述している。
 興味深いのは、孫文を慕う日本人側のややロマン主義的な行動の傾向に比して、孫文自身は革命にかかわっては冷静なリアリズムを体得していたことである。本書は日本人の側の行動に、明治維新(また自由民権運動)の理想が日本では実現しづらくなっていたことへの代償行為を読みとっており、興味深い。
 ただし日本側からのアプローチだけでは、やはり限界があるだろう。お薦めは『新編 原典中国近代思想史 3「民族と国家 辛亥革命」』である。ここには孫文だけでなく、他の中国人革命家の当時の言葉も多く収録されている。辛亥革命を推進した主体として、孫文などの広東グループ(興中会)だけでなく、湖南派(華興会)、浙江派(光復会)など複数の潮流がかかわっていた。
■国民国家と天下
 これら諸潮流には様々な対立点があるが、たとえば省の独立(維持)に比重を多くかける傾向と、中央政治を握ることを優先する傾向の対立点があった。またどういった社会階層を国造りの主導的勢力と認定するのかについても分岐があり、さらには孫文のように欧米や日本の援助に頼るやり方への批判なども潜在していた。いずれにせよ、中国近代革命一般を読み解く上でも決定的な諸論点である。
 その上でご紹介したいのが、溝口雄三『中国の衝撃』に収められた「再考・辛亥革命」及びその他の論文である。溝口は辛亥革命を観察する際には、西洋からの影響(インパクト)よりも、国民国家よりも広い「天下」概念(王朝交代の歴史空間)の潜在性を重視すべきであるとし、辛亥革命には独自のサイクルとして「集権—分権—集権」が表現されたと述べている。
 もとより溝口には、中国の近代化はもともとから中国社会が持っていた「基体」がまるで蛇が脱皮するように自身を革新していくプロセスとしてある、という独自の中国観があった。この考え方は、今日の「中国の台頭」を観察する上でも有効なのではないかと思う。
■日本人への問い
 最後に。冒頭に紹介した『孫文の辛亥革命を助けた日本人』には、後に日本が中国侵略に傾いたことに鑑み、「辛亥革命に協力した日本人のいく人かがもっていた、あの道義や正義はなぜ生かされなかったのだろう」という問いかけがある。その答えは台湾史研究者・戴國キの『戴國キ著作選1 客家・華僑・台湾・中国』(創英社/三省堂書店・2940円)の論文「連帯とチョッカイ—一幅の掛軸から—」に記されている。
 この中で戴は、辛亥革命に反対する徳富蘇峰と激しく対立しそれを擁護した中野正剛が後に満州事変を全面的に支持する要因を探る中で、中野が理念として「民権運動を守れなかった」と指摘し、また日本人のアジアへの関わり方として「日本国内の問題を自覚することなく、まして解決できなくて新たな用語“連帯”を叫ぶ」ことの問題性を指摘していた(そこには、日本人の好意に甘えた自分たちの側の反省も含まれている)。戴の主張は今日でも当てはまるかもしれない。
 ◇まるかわ・てつし 明治大学教授(東アジア文化論) 63年生まれ。著書に『日中一〇〇年史』『台湾ナショナリズム』など。

2011年10月2日日曜日

ノーベル賞とは何か 辻篤子が選ぶ本

■威光をめぐる人間ドラマ

 ノーベル賞の季節がやってきた。明日の医学生理学賞を皮切りに、各賞の発表が続く。昨年は日本人2人の化学賞受賞で沸いた。今年はどうだろう。
 ダイナマイト王ノーベルが遺言に賞の創設を記したのは19世紀のことだ。1901年の第1回以来、21世紀の今も権威を保ち、世界中で注目される。
 とりわけ、自然科学の世界では、最高の栄誉だ。すぐれた研究者に資金の心配なく研究に打ち込んでほしい、というのがノーベルの願いだったようだが、受賞者は多忙になってそうもいかない。賞のたぐいまれな成功の皮肉な結果ともいえる。
 そんなノーベル賞だが、選考書類が50年間公開されず、またノーベル財団が多くを語らないこともあって、どこか謎に包まれた存在であることも事実だ。
 『ノーベル賞の百年』は、そのノーベル財団が100周年を記念して世界各地で開いた巡回展の図録をもとにしているが、同時に、賞の成り立ちや意義を知る格好の読み物でもある。
 日本版では、北里柴三郎ら科学者だけでなく、平和賞の渋沢栄一ら数多くの人が推薦されていたこと、また、物理学者の長岡半太郎の科学に対する厳しい姿勢をうかがわせる推薦書なども紹介されており、興味深い。
 賞が成功した大きな理由は賞金額と国際性とし、平和賞を贈るのがノルウェー、それ以外はスウェーデンと、決して強国ではないことも公明正大さへの評価を高めた、と分析している。

■選考の謎に迫る
 ここでは語られない選考過程の謎に、ハンガリーの化学者が受賞者を含む多くの科学者のインタビューをもとに迫ったのが『ノーベル賞 その栄光と真実』だ。受賞者はどう選ばれたのか、彼らはどう育ち、どう成果を得たのかを追っている。
 業績は十分値するのに受賞しなかった多くの人々についても1章を割いている。ノーベル賞に銀メダルや次点はなく、まさに1か0の世界だ。その差はあまりに大きく、もれた人に一抹の寂しさを感じるという。
 そして、ノーベル賞の栄誉を受けるのはごく限られた分野の、ごく少数の幸運な科学者であることを考えれば、ノーベル賞をもとに科学史をまとめ上げることはできない、とする。

■激しい競争描く
 一方、賞の威光は科学者をときに激しい競争に走らせる。N・ウェイド著『ノーベル賞の決闘』(岩波書店・品切れ)は「競争意識のある極端な例」を描きつつ、賞によって、功績がチームのリーダー1人に帰せられがちな問題点も指摘する。
 いかにライバルを出し抜いたか、受賞者本人が堂々と語っているのが『二重らせん』だ。DNAの二重らせん構造発見は、現在の生命科学の基礎を築いた20世紀最大ともいわれる成果である。多くの科学者が協力しつつ競い合う、科学的発見のプロセスを生々しく伝える。
 結局は、科学も、科学者という人間の営みなのだ。
 ノーベル賞は、そんな科学への関心を喚起する大きな役割を果たしてきた。この10年、相次いだ日本人受賞者が研究や人生を振り返った著書は、科学をより身近に感じさせてくれる。
 化学賞の白川英樹さんや田中耕一さんは、失敗を見逃さなかったことが発見につながった。物理学賞の小柴昌俊さんの試行錯誤も、大発見への道は決して平坦(へいたん)ではないと、ごく当たり前のことを教えてくれる。
 受賞者の功績を称(たた)えつつ、その背後にある科学という営みの広がりに思いをはせる。ノーベル賞とのそんなつきあい方が大切ということだろう。

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