2012年8月31日金曜日

河野談話―枝でなく、幹を見よう

 旧日本軍の慰安婦問題をめぐって、日韓関係がまたきしんでいる。
 きっかけは、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が今月、竹島に上陸したのは、慰安婦問題で日本政府の対応に進展がなかったからだとしたことだ。
 これに対し、野田首相が「強制連行の事実を文書で確認できなかった」と語ったことが、韓国国内で「歴史の歪曲(わいきょく)」などと反発を広げている。
 歴史問題を持ち出してナショナリズムをあおるような大統領の言動には首をかしげる。
 だが、日本の政治家の対応にも問題がある。
 見過ごせないのは、松原仁・国家公安委員長や安倍晋三元首相ら一部の政治家から、1993年の河野官房長官談話の見直しを求める声が出ていることである。
 河野談話は、様々な資料や証言をもとに、慰安所の設置や慰安婦の管理などで幅広く軍の関与を認め、日本政府として「おわびと反省」を表明した。
 多くの女性が心身の自由を侵害され、名誉と尊厳を踏みにじられたことは否定しようのない事実なのである。
 松原氏らは、強制連行を示す資料が確認されないことを見直しの理由に挙げる。枝を見て幹を見ない態度と言うほかない。
 韓国の人たちにも、わかってほしいことがある。
 河野談話を受けて、日本政府の主導で官民合同のアジア女性基金を設立し、元慰安婦に対して「償い金」を出してきた。それには歴代首相名のおわびの手紙も添えた。
 こうした取り組みが、韓国国内でほとんど知られていないのは残念だ。
 もっとも、今回に限らず日本の一部の政治家は、政府見解を否定するような発言を繰り返してきた。これではいくら首相が謝罪しても、本気かどうか疑われても仕方ない。
 5年前、当時の安倍首相は当局が人さらいのように慰安婦を連行する「狭義の強制性」はなかった、と発言した。
 その後、米下院や欧州議会が慰安婦問題は「20世紀最悪の人身売買事件の一つ」として、日本政府に謝罪を求める決議を採択した。
 自らの歴史の過ちにきちんと向き合えない日本の政治に対する、国際社会の警鐘である。
 河野談話の見直しを求める政治家は、韓国や欧米でも同じ発言ができるのだろうか。
 野田首相も誤解を招く発言は避け、河野談話の踏襲を改めて内外に明らかにすべきだ。

エネルギー政策―原発ゼロの時期明示を

 原発への依存度を減らす新しいエネルギー戦略の策定が大詰めを迎えた。国民的議論のまとめを終え、週明けにも政治決定に向けた会合が開かれる。
 多様な手法による国民的議論は、「少なくとも過半の国民は原発に依存しない社会を望んでいる」と総括された。
 野田政権はこれを重く受け止め、原発をゼロにすることと、その実現時期の目標を明確に打ち出すべきだ。
 国民的議論のまとめでは、約8万9千件に達したパブリックコメントをはじめ、意見聴取会や各種団体から寄せられた声を集計し、意見の背景となる理由や問題意識を分類した。
 討論型世論調査といった新しい手法にも取り組んだ。全体の総括にあたっては、世論調査やコミュニケーションの専門家による第三者評価も受けた。
 手順には混乱や未熟さも見受けられたが、一つの課題に政治がここまで「民意のありか」を探ることに手間をかけ、「見える化」した例はないだろう。
 エネルギー政策はそれだけ重く、むずかしいテーマであり、だからこそ、今回得られた成果は、政権交代や党首の違いを超えて尊重すべきだ。
 もちろん、原発ゼロの実現には多くの課題があり、不確実な要素も多い。
 このため、政府内では「将来のゼロはうたうが、実現時期は明示しない」とする案も検討されているという。
 だが、あいまいな結論では、政治に対する国民の不信が募るだけだ。電力市場への投資意欲も高まらず、発電の新たな担い手や革新的なアイデアが育つ余地を狭めかねない。
 課題の克服度合いを確認しながらスピード調整する余地は残してもいいが、まずは目標時期を設けるべきだ。
 「過半が脱原発」の総括を裏返せば、「原発が要る」と考えている人が一定割合いると読み取れる。脱原発が望ましいが、電力不足や電気料金の高騰を招いては困ると考える人は少なくないだろう。
 政府の分析でも、原発ゼロへの不安や問題意識として、自然エネルギーや省エネの普及に対する実現性や、電気料金の値上げ・電力不足が雇用や経済に与える影響、福島の事故処理や核燃料の処分・廃炉作業を進めていくうえでの人材確保などの論点があげられた。
 政治決定の際には、こうした課題について、具体的なデータや取りうべき政策も、ていねいに説明し、理解を得る作業が不可欠だ。

韓国提訴拒否 竹島はやはり国際裁判が筋だ

 あくまで国際司法裁判所(ICJ)の法廷での決着を追求し続けることが重要である。
 島根県・竹島の領有権問題を日韓両国がICJに共同付託するとの日本政府の提案について、韓国政府は拒否する口上書を日本側に渡した。
 玄葉外相は、韓国側回答に「極めて失望」したとする談話を発表した。外務省は、ICJへの日本単独の提訴に向けて、訴状の作成などの準備作業を始めている。
 政府は1954年と62年にICJ提訴を韓国に提案したが、韓国に拒否された段階で断念した。単独提訴を行えば、初めてだ。
 当時は65年の国交正常化前であり、韓国との決定的対立を避ける外交的配慮があったのだろう。だが、李明博大統領が政権浮揚の思惑などから竹島訪問を強行し、重大な一線を越えた事実は重い。単独提訴は当然の対応である。
 韓国は、自らの領有権が正当だと考えるなら、ICJ提訴に応じ、法廷で堂々と主張すべきだ。過去の日本の提訴提案時は、国連未加盟だったが、今は主要な加盟国で「グローバル・コリア」を標榜(ひょうぼう)しているのだから、なおさらだ。
 韓国側は口上書で、竹島は「歴史的、地理的、国際法的に明白な韓国の不可分の領土」「いかなる紛争もない」などと強弁した。
 竹島が「日本帝国主義の韓半島侵奪の過程で初めて犠牲になった」「カイロ宣言、ポツダム宣言及び日本の無条件降伏を通じて韓国領土に回復した」とも、日本側に口頭で伝えたという。
 だが、日本は17世紀には竹島を漁場などに利用し、領有権を確立した。大戦後、韓国は竹島を韓国領とするよう米国に要請したが、拒否されたため、一方的に「李承晩ライン」を設定し、不法占拠した。
 日本が単独提訴しても、韓国が裁判を拒否し続けた場合、公判は開かれない。それでも、日本が国際社会に竹島の領有権の正当性をアピールするとともに、日本の提訴を韓国が拒否した事実を歴史に残す意義は小さくあるまい。
 日本は、自民党政権時代を含め、日韓関係の悪化を懸念して、竹島問題で主張を抑制してきたことは否めない。単独提訴をその対応を改める一歩とすべきだ。
 一方で、韓国が重要な隣国であることに変わりはない。北朝鮮問題、経済連携など、日韓両国が取り組むべき案件は多い。
 来年2月までの李大統領在任中に日韓関係を改善するのは難しいとしても、対話や協議はきちんと継続することが大切である。

南海トラフ地震 減災対策を着実に進めたい

 巨大地震と津波による深刻な被害を最小限に食い止めるため、減災対策を着実に進めたい。
 東海、東南海、南海などの地震が連動する「南海トラフ巨大地震」について、内閣府の有識者会議が被害想定を公表した。
 東海から九州沖までの海底が広範に動くと、マグニチュード9級の巨大地震になり、犠牲者数は最大で32万3000人に上る。
 国内の地震では、これまで、10万5000人以上とされる関東大震災の犠牲者数が最多だった。
 想定では、津波の犠牲者数が23万人で、全体の7割を占める。13都県124市町村で、津波の高さが平均5メートルを超えるためだ。建物倒壊など地震による犠牲者数も8万2000人に及ぶ。
 「国難」とも言えよう。
 この想定を参考に、政府や関係自治体が協力して、津波避難所や避難ルートの整備など、有効な対策を講じる必要がある。
 無論、これほどの巨大地震が起きる可能性は大きくない。有識者会議でも、最大級を前提にすると「自治体や住民が対策をあきらめる」と懸念する声が出た。
 しかし、想定が甘く、備えが(おろそ)かだったことが、東日本大震災の教訓である。
 有識者会議は、具体的な減災対策も提示している。
 地震後、10分以内に全員が避難を始めれば、津波の犠牲者は想定より8割少なくできるとして、素早い避難の重要性を指摘した。
 建築基準法の耐震基準を満たした建物の比率が、今の76%から100%に上がれば、倒壊による犠牲者も同程度減らせるという。
 これで犠牲者の総数は、約5分の1の6万1000人になる。政府や自治体の参考になろう。
 厳しい財政状況の下、防潮堤建設など大規模な公共事業は容易ではない。避難ビルの確保や避難訓練の強化など、すぐに着手できる対策を優先することが大切だ。
 被災が予想される地域は、産業の集積地も多い。高台移転を検討したり、自前の津波避難所を設けたりする企業が増えつつある。
 対応が遅れがちな中小企業の支援策も必要だろう。
 政府は、関係地域を対象に、必要な防災施設の整備をさらに促進する特別措置法制定の方針を打ち出している。東海地震を対象とした発生予知の範囲を拡大することも検討するという。
 ただ、地震の予知はできないとの批判もある。その是非を含め、法整備の論議を深めるべきだ。

2012年8月30日木曜日

野田首相問責―無節操もきわまった

 苦い現実に向き合い、不人気な政策でも与野党が歩み寄って前に進める。社会保障と税の一体改革をめぐる民主、自民、公明の3党合意は、そんな政治への一歩にみえた。
 それが一転して全面対決に逆戻りである。
 野田首相の問責決議がきのうの参院本会議で可決された。自民党など野党側は今後の法案審議を拒否し、国会は来月8日の会期末まで空転する。
 一体改革の設計も、予算執行に必要な赤字国債法案も、原発の安全を担う原子力規制委員会の人事も、道筋のつかないままの政争である。
 政治の無責任、無節操ぶりにあきれるほかはない。
 とくに驚くべきは自民党の対応だ。国民の生活が第一などが提出し、自民党が賛成した決議は問責の理由として「国民の多くは今も消費増税法に反対」と明記。民・自・公の3党協議で決める手法についても「議会制民主主義が守られていない」と批判している。
 これでは自民党の自己否定にほかならない。
 公明党は「一体改革を否定する内容で賛同できない」と採決を退席した。こちらの方が筋が通っている。
 自民党がそうまでして問責決議を急いだのは、政権を揺さぶることで一刻も早く衆院解散に追い込みたいとの思惑からだ。
 だが、みずから進めた消費増税を否定する問責に賛成するというのでは、政策より解散が優先なのだと告白するようなものではないか。
 党利党略を優先するという点では、民主党も同じだ。
 支持率低迷に苦しむ民主党としては解散を先送りしたい。衆院の定数見直し問題で、民主党は自民党の反対する法案を衆院で強行採決した。一票の格差是正が実現して、解散の環境が整うのを防ぐためと勘ぐられても仕方あるまい。
 こんな不毛な対立を続けていても、国民に何の益もない。
 自民党は、解散を勝ち取れば政権に復帰できるかもしれないが、自公は参院で過半数を持たず衆参のねじれは続く。今あしざまにののしっている民主党と、そのとき手を組めるのか。
 一方、民主党政権は、解散先送りで政権を延命できても、自民党の協力がなければ政策を実現できない。
 ともに党首選を9月に控え、議員心理におもねって政治を停滞させているとすれば、こんな愚かしいことはない。
 政治家はみずから墓穴を掘っていることがわからないのか。

南海トラフ―できることはある

 震度7の揺れが10県を襲う。最悪で東日本大震災の17倍の32万人が命を落とす。
 東海沖から九州沖を震源域とする、南海トラフ巨大地震の被害想定は、桁違いに大きい。
 起こりうる被害は重く見つめなくてはならない。
 ただ、これはあくまで千年に一度の地震と津波が起きたらという「最悪」の想定だ。
 数字だけを見て「とても逃げられない」とあきらめるのは、それこそ最悪だ。
 むしろ注目すべきは、すみやかな避難を徹底すれば、津波による死者を最大で8~9割減らせる、という指摘だ。
 政府は数十年に一度レベルの津波には防潮堤などのハードで備える方針だ。しかし、巨大地震の大津波を、海沿いに高々と防潮堤をめぐらせて防ごうというのは現実的ではない。
 長い目で見れば、まちづくりを根本から見直す必要が出てくる。市街地を内陸に移すかどうか、それにかかる社会的な費用を災害の頻度とあわせてどう計るか、という問題に向き合わねばならない。
 では、あした地震が来たら?
 それでもできることはある。それが「避難」というソフト面の対策だ。
 どうすれば、みんなが地震後ただちに安全な場所へ逃げられるか。大切なのは、それぞれの地域で避難計画を練ることだ。
 津波からの避難は、車は渋滞するので徒歩が原則だ。だが、東日本大震災では5割以上が車で逃げた。自力で歩けない家族や、高台が遠くて歩きでは間にあわない人もいる。どんな家庭や地区は車を使ってもよいか、地域で話し合ってゆるやかな合意を作っておきたい。
 浜松市は3月11日に津波避難訓練をし、歩けない人を車に乗せて何分で何キロ逃げられるかを検証した。渋滞につかまる想定でも試した。毎年続ける計画という。こうした実証は避難計画づくりだけでなく、住民の「ただちに逃げる」意識を高める役にも立つ。
 市町村は、高台への避難路など逃げるための備えを急ごう。高台に代わる避難ビルの指定は東日本大震災後の半年で倍に増えたが、まだ足りない。
 怖いのは津波だけではない。揺れによる建物倒壊でも数万人の死亡が見込まれる。しかし、これも住宅の耐震化率を今の8割から9割に上げることで、犠牲者を4割減らせるという。
 今できることを積み重ねる。
 それは、より現実的な「数十年に一度」レベルの地震への備えにもなる。

首相問責可決 自らを貶めた自民党の「賛成」

 野田首相への問責決議に一体、どんな意味があるというのか。
 首相を衆院解散に追い込めるわけではない。立法府の一員としての責任を放棄し、党利党略に走る野党の姿勢には、あきれるばかりだ。
 国民の生活が第一、みんなの党など参院の野党7会派が提出した首相問責決議案は29日、野党の賛成多数により、可決された。自民党は賛成票を投じた。
 問責決議は、消費税率引き上げは国民の声に背くとし、関連法を成立させた民主、自民、公明の3党協議も「議会制民主主義が守られていない」と非難している。
 だが、これはおかしい。自民党を含め、衆参両院議員の約8割が賛成した法律である。
 自民党が今更、こんな決議に賛成したことは到底、理解できない。政党として自らを(おとし)める行為だ。公明党は採決で棄権して、筋を通したではないか。
 自民党の谷垣総裁は、問責の理由について、「内政、外交の両面にわたって今の野田政権が国政を進めることは限界だ」と述べた。「日本外交の基礎がガタガタになっている」とも批判した。
 だが、首相を問責する根拠としては説得力に欠ける。
 竹島など領土問題では、長年政権を担当してきた自民党も責任を免れない。領土・領海に対する中国や韓国、ロシアの攻勢に、与野党は結束して対応すべきなのに、首相に、後ろから弾を撃つような行為は国益を損ねよう。
 内政では、民自公3党が財政再建の必要性に対する認識を共有し、社会保障と税の一体改革の実現へ連携したばかりである。
 衆院選挙制度改革に関する法案の扱いなど民主党の強引な国会運営に大きな問題があるとはいえ、問責決議は、民自公3党の協調路線を壊す。「近いうち」という衆院解散の民自公の党首合意さえ反古(ほご)になりかねない。
 今後、自民党は原子力規制委員会の国会同意人事や一部の議員立法を除いて審議拒否する方針だ。「決められない政治」が続く。
 国会では、赤字国債の発行を可能にする特例公債法案をはじめ、共通番号制度関連法案(マイナンバー法案)、ハーグ条約承認案など重要案件が積み残された。
 衆院の内閣不信任決議と違い、参院の問責決議には法的根拠がない。それを政府・与党攻撃の手段にして審議を拒否し、首相・閣僚の交代を迫る。こんな悪習をいつまで繰り返すのか。参院を「政局の府」にしてはならない。

意識調査検証 「脱原発依存」の根拠にするな

 将来の原子力発電比率などに関する国民の意識調査を都合良く分析し、脱原発に政策のカジを切る根拠に使うのは、あまりに乱暴ではないか。
 討論型世論調査などの結果について政府の有識者会議が、「少なくとも過半の国民は、原発に依存しない社会の実現を望んでいる」とする総括案をまとめた。これを踏まえ、政府はエネルギー政策の基本方針を近く決定する。
 だが、世論の過半が「脱原発依存」だと結論づけた総括案は説得力に欠ける。
 政府は意識調査の結果を過大評価せず、一定の原発利用を続けていく現実的なエネルギー政策を推進すべきである。
 2030年の原発比率に関する「0%」「15%」「20~25%」の三つの選択肢のうち、討論型やマスコミ各社の世論調査で0%と15%を選んだ割合を合計すれば7~8割に達する。「脱原発依存が過半」とした総括案の根拠だ。
 とはいえ、「0%」以外を選んだ比率も、合計すると5~7割になる。一定程度は原発が必要と考える人も相当に多い。
 有識者会議で「原発に依存しないというより、原発を減らしたいと解釈できる」との指摘が出たのはもっともだ。「脱原発依存」が多数派とは断定できまい。
 さらに、討論型世論調査などの参加者には原発政策に進んで意見を言いたい人が多く、主張が脱原発に偏る傾向がある。こうした数字をもとに、全国民の世論を推し量るのは無理がある。
 有識者会議でも「討論型世論調査が国民全体の意見になるという実証的な検証はない」「比率をそのまま正しいと考えるのは危険」など、数字の偏重を戒める意見が多く出された。
 総括案が原発比率の方向性を打ち出し切れなかったのは、そういう事情もあるのだろう。
 政府が示した三つの選択肢は、再生可能エネルギーの見積もりが過大で、非現実的だ。選択の幅が狭く国民が選びにくいなど、政府による「国民的議論」の欠陥も指摘されている。
 せっかく世論調査の専門家を集めた有識者会議もわずか3回で終わり、論議は深まらなかった。
 この会議を主導した古川国家戦略相は開催前から、「原発に依存しない社会を作る方向性で戦略をまとめる」と述べていた。
 これからどういう経済社会を築いていくのか。そのグランドデザインも示さないまま「脱原発依存」に誘導するのなら無責任だ。

2012年8月29日水曜日

近隣外交―挑発に振り回されまい

 北京で丹羽宇一郎・駐中国大使の車が襲われた。

 背景などは不明だが、一国の大使の身の安全が脅かされるなど、あってはならないことである。中国政府には、真相究明と再発防止を強く求める。

 日中関係はいま重要な局面にある。香港の活動家らが尖閣諸島に上陸したのに続き、中国各地で反日デモが起きている。こんなときこそ、両国の政治家には冷静な対応を望みたい。

 ところが、一部の政治家は逆に相手を挑発するかのような言動を繰り返している。

 石原慎太郎・東京都知事が、都が購入を計画している尖閣諸島への上陸を求めている。実現すれば、中国との緊張がいっそう高まるのは明らかだ。

 政府が、都の上陸申請を却下したのは当然である。

 政治家の無分別な言動は、日本に限ったことではない。

 韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の竹島上陸は、日韓両国を無用にきしませる行動だった。

 李大統領は、竹島上陸の理由に、旧日本軍の慰安婦問題に進展がないことを挙げた。これについても、石原氏は「(慰安婦は)いやいやじゃなくあの商売を選んだ。日本軍が朝鮮人に強制して売春させた証拠がどこにあるか」と、韓国国民の感情を逆なでするような発言をした。

 さらに松原仁・国家公安委員長は「(旧日本軍の関与を認め、謝罪した93年の)河野官房長官談話のあり方を閣僚間で議論すべきだ」と語った。

 非はまず李氏にある。だが、こんな挑発の応酬が両国の国益に資するとは思えない。

 日本政府はこれまで、民間主導のアジア女性基金を通じた償い事業などを通じ、この問題を乗り越えようと努めてきた。官民問わず多くの関係者が営々と心を砕いてきた。

 それでも克服できないのが歴史問題の難しさである。

 日本側の努力を粘り強く説明し、話しあいを通じて打開をさぐる。それが責任ある政治家のふるまいではないのか。

 もちろん、各国の政治家の大半は、日中、日韓関係のこれ以上の悪化を望んではいまい。

 国民の多くも心を痛めていることだろう。

 日中韓の3国の相互依存関係が、あらゆる分野で、もはや切っても切れない深まりと広がりをもっているからだ。

 偏狭なナショナリズムが燃え上がり、相互不信が広がらないよう目を配る。それこそが政治の役割である。

 お互い、一部の政治家の挑発に振り回されてはならない。

パラリンピック―あの熱気をもう一度

 五輪の余韻が残るロンドンの街に、アスリートたちの躍動が戻ってくる。障害を抱える人たちのスポーツの祭典、パラリンピックが開幕する。
 障害者スポーツ発祥の地への里帰りだ。前回、1948年のロンドン五輪にあわせ、近郊の病院で開いた車いすアーチェリーの大会が始まりとされる。第2次世界大戦で傷を負った患者のリハビリがきっかけだった。
 障害者の自立と社会参加のために始まった大会はいま、競技志向が強まっている。
 先日の五輪で健常者とともに走った義足ランナー、オスカー・ピストリウス選手(南アフリカ)は、北京のパラリンピック大会で短距離3冠のスターだ。
 競技に打ちこむ姿が企業の共感を呼び、プロとして活躍する選手もいる。車いすテニスの国枝慎吾選手は北京大会で金メダルを取り、プロ宣言した。
 「車いすテニスでお金を稼ぎ、プロとして自立できる。そうした成功モデルを子どもたちに示したかった」。健常者と同じ会場で戦う車いすテニスの4大大会など、プロツアーを転戦し、優勝を重ねている。
 ただ、こうした恵まれた環境を享受できる選手は、まだひと握りだ。日本のパラリンピックの選手とスタッフが、個人で負担する活動費は年平均144万円に上る。ロンドンで活躍し、支援してくれる人の輪を広げたいと願う選手が多い。
 勝利至上主義が強まると、ドーピングの誘惑など、負の側面も顔を出す。3大会ぶりに復活の知的障害者の種目では、過去に健常者が偽って出場する不正が露見したことがある。
 技術の進歩がめざましい義足や車いすは、性能が良いものは高価になる。経済格差がそのまま実力差につながる。スポーツに欠かせない公平さをどう保つか。パラリンピックを健全に発展させるための課題だろう。
 国内で、五輪は文科省、パラリンピックは厚労省と、縦割り行政になっている。五輪選手の強化に使う文科省所管の国立スポーツ科学センターがパラリンピックの水泳陣に開放されるなどの改善はある。半面、代表選手への調査で国立スポーツ科学センターを訪ねたこともない選手が8割に上る。
 裾野をつくる一般の障害者をふくめ、スポーツに親しめる環境を広げる必要がある。
 今回は、166の国・地域から、さまざまなハンディを乗り越えた約4300人が集う過去最大規模の祭典となる。メダルラッシュに沸いた五輪に負けない声援を送ろう。

河野談話 「負の遺産」の見直しは当然だ

 韓国の李明博大統領の竹島訪問に関連し、いわゆる従軍慰安婦問題が再燃している。
 その根底には、慰安婦問題に関する1993年の河野官房長官談話があることは否定できない。政府は、これを見直し、新たな見解を内外に表明すべきである。
 野田首相は参院予算委員会で、河野談話を踏襲するとしながらも「強制連行の事実を文書で確認できず、慰安婦への聞き取りから談話ができた」と説明した。松原国家公安委員長は談話を見直す観点から閣僚間の議論を提起した。
 河野談話は、慰安婦の募集について「軍の要請を受けた業者が主として当たった」とした上で、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」と記した。
 しかし、軍や官憲が慰安婦を強制的に連行したことを示す資料は発見できなかった。元慰安婦の証言のみが根拠とされ、これを裏付ける調査も行われていない。
 当時、韓国の元慰安婦らが名乗り出て日本政府に謝罪などを求めていた。談話の背景には、外交的配慮もあったのだろう。
 結果として、旧日本軍が女性を組織的に強制連行して「性奴隷」にしたといった誤解が、世界に定着した。米下院や欧州議会などは慰安婦問題で日本政府の謝罪を求める対日批判決議を採択した。
 だが、その後も、旧日本軍による慰安婦の強制連行を証明する資料は見つかっていない。
 米下院で慰安婦問題が取り上げられていた2007年3月、安倍内閣は「資料には軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とする政府答弁書を閣議決定した。
 河野談話を継承しつつ、その根拠となる資料は存在しないという立場を明確にしたものだ。
 だが、このままでは国際社会の誤解を払拭することは難しい。
 大阪市の橋下徹市長が、閣議決定もされていない河野談話と07年の閣議決定は矛盾しており、河野談話の内容を見直すべきだと述べたのは、もっともである。橋下氏は河野談話を日韓の紛争の「最大の元凶」とも批判している。
 政府は、誤解の拡散を招かぬよう手立てを講じる必要がある。
 野田内閣は、旧日本軍による慰安婦強制連行の確証がないことを踏まえ、河野談話という自民党政権時代の「負の遺産」を見直し、日本政府の立場を内外に分かりやすく説明しなければならない。

オスプレイ配備 事故報告を再発防止に生かせ

 事故の原因や背景の分析結果を、再発防止策の徹底にきちんと生かすことが肝要である。
 防衛省が、4月にモロッコで発生した米海兵隊の新型輸送機MV22オスプレイの墜落事故に関する分析評価報告書を公表した。
 報告書は、経験の浅い副操縦士がミスを重ねた「人的要因」が主たる事故原因と結論づけた。最大秒速14メートルの強風の中、飛行マニュアルに反して、追い風を受ける方向に機体を旋回し、回転翼の角度を規定以上に傾けたという。
 オスプレイの機体自体は事故の要因ではない、としている。
 報告書は、米軍の詳細な事故調査に基づいており、納得できる内容だ。オスプレイが他のヘリコプターなどと比べて特に危険であるかのような評価は公平でない。
 大切なのは安全性を高める具体策だ。海兵隊は既に、飛行マニュアルを改訂したうえ、追い風時の回転翼操作の模擬訓練を操縦士に課す方針を示している。
 事故は米兵の生命に直結する。米軍が安全確保に真剣に取り組むのは当然だが、日本側も、これを確認する必要があるだろう。
 日米合同委員会では、人口密集地上空の飛行や低空飛行の制限など、オスプレイの国内運用の具体策を協議している。安全に最大限配慮した合意を目指したい。
 防衛省は9月中旬にも、6月の米フロリダ州での事故評価も含めて、オスプレイの安全性に関する最終的な見解をまとめ、国内飛行の是非の結論を出す予定だ。
 オスプレイが配備される沖縄県だけでなく、訓練飛行が行われる可能性のある本州などの一部自治体が飛行反対を政府に申し入れているが、過剰反応ではないか。
 訓練は、北東アジア有事などに備えるもので、日本の安全保障につながっている。忘れてならないのは、なぜオスプレイを沖縄に配備するか、という点である。
 オスプレイは、普天間飛行場に配備中のCH46輸送ヘリコプターと比べて、巡航速力は2倍以上、行動半径も4倍以上になる。尖閣諸島まで給油せずに1時間弱で人員や物資を運べることになる。
 日米共同の作戦行動能力を大きく向上させ、抑止力も高まる。米政府が共同防衛の対象と明言する尖閣諸島を含む南西諸島の防衛に加え、人道支援や災害救援にも貢献が期待されよう。
 政府は、オスプレイの安全性に加えて、こうした米軍の機動力向上の意義についても関係自治体や国民に説明を尽くすべきだ。

2012年8月28日火曜日

国会の迷走―幼稚さにあぜんとする

 国会会期末まで2週間を切ったというのに、2大政党の常軌を逸したふるまいが続く。
 民主党がきょう、赤字国債発行法案と衆院選挙制度改革法案の衆院採決を強行する構えだ。
 自民党はこれに反発し、あす野田首相に対する問責決議案を参院に出すという。
 そうなれば国会は空転する。両法案をはじめ、多くの法案や条約が成立しなくなる。
 なのに2大政党は、衆院解散の時期をめぐる政局の駆け引きばかりに精を出している。
 まるで駄々っ子どうしのけんかのような幼稚さだが、うんざりしてばかりもいられない。
 2大政党に、改めて強く求める。互いに頭を冷やし、一歩ずつ歩み寄る。政治を前に進めるには、それしかない。
 まず、民主党に対してだ。
 衆院選挙制度改革法案で、自民党の小選挙区「0増5減」法案を受け入れることだ。
 民主党の案は生煮えだ。小選挙区、比例代表、連用制の三つの制度が混在する、複雑怪奇、理念不明なしろものである。
 これを無理やり参院に送っても、野党としては否決するか廃案にするしかないだろう。
 わざと無理筋の案を出し、解散を阻むことが狙いなのか。それは違うというなら、多くの野党が同意する「0増5減」の自民党案を受け入れるべきだ。
 その代わり、自民党は赤字国債発行法案に賛成すべきだ。
 自民党は予算に反対した。だから予算と一体の法案にも反対が筋だ、という理屈は分かる。
 だが、この法案が成立しなければ、今年度当初予算90兆円のうち44兆円の財源の裏付けがなくなる。国民のくらしや日本経済への影響は甚大だ。
 政権批判は当然だが、政権を追い込むために国民生活を人質にとるやり方に大義はない。
 もう一つ、自民党は首相への問責決議も断念すべきだ。
 谷垣総裁は首相と「近いうち」の解散で合意したが、時期の明示は引き出せなかった。なのに今になって「今国会中に解散しないなら問責だ」という主張は説得力を欠く。
 自民党には、竹島や尖閣問題での不手際を問責の理由にあげる声もある。だが、一連の領土外交で問責に値するほどの非が首相にあったとは思えない。
 そもそも参院での問責決議には、衆院での内閣不信任とは異なり、法律上の根拠がない。それをテコに首相に解散や退陣を迫る政治は終わりにしよう。
 2大政党は幹事長会談や党首会談などあらゆる手立てを尽くし、接点をみいだすべきだ。

給付付き控除―就労支援へ検討を急げ

 消費増税に伴う低所得者対策の一つとして、「給付付き税額控除」の検討が民主党などで始まった。
 所得税を減免(控除)して支援することを基本に、納税額が少なくて控除しきれない人には残額を給付する。これが代表的な仕組みだ。所得が課税最低限に及ばず、もともと納税していない人には給付だけを行う。
 税制の一部である控除と社会保障の給付を一体で考えるべきだ、との視点に基づく。
 日本では、税制を仕切る財務省と社会保障を担当する厚生労働省の縦割りのため、制度間の矛盾や効果の乏しい対策が少なくない。省庁の垣根を越えた取り組みとして、給付付き控除の検討を急ぐべきだ。
 消費税には、所得の少ない人ほど負担割合が高くなる「逆進性」がある。これをどうやってやわらげるか、政府は2段階で対策を考えている。
 2014~15年に段階的に消費税率を引き上げる際には「簡素な給付」を行う。対象者や期間を絞って現金を戻す案が有力だ。15年度以降に、より本格的な対策をとる。その一つとして給付付き控除があがっている。
 海外で、付加価値税(日本の消費税に相当)の負担軽減策としているのはカナダぐらい。子育て支援策のほか、目立つのは就労促進策としての位置づけで、米国や英国、フランスなどが導入済みだ。
 年金や生活保護には給付額を物価に連動させる仕組みがあり、消費増税で物価が上がれば反映される。本格対策は、こうした「安全網」の対象にならない低所得・無所得者を中心にすえるべきだろう。
 非正規労働や無職の人たちがしっかりした職に就き、より多くの所得が得られるよう後押しするために、給付付き控除を使えないか。
 米国は、所得が増えたからといって給付額をすぐには減らさず、一定の所得までは給付額も並行して増やし、その後少しずつ減らしていく仕組みにしている。働く意欲を起こす工夫として参考になろう。
 ただ、給付付き控除の導入には、課題が山積している。
 まず、対象者の所得をしっかりつかむことが必要だ。15年の導入を目指し、国会で法案が審議中の「マイナンバー」(社会保障と税の共通番号)が不可欠だが、それをどう活用していくか。生活保護や失業保険など、既存の制度とも整合性をとらなければならない。
 幅広い検討が必要になる。時間を浪費している余裕はない。

与野党の対立 衆院選改革の放置にあきれる

 通常国会は会期末まで2週間足らずとなった。なお、数多くの懸案が残っている。与野党は、最後まで合意への努力を続けるべきだ。
 最大の懸念は、「違憲状態」と司法が判断した衆院選挙制度の改革が実現しないことである。
 民主党は、衆院特別委員会で自らが提出した法案を全野党欠席のまま単独で採決し、可決した。28日に衆院を通過させる構えだ。
 無論、野党は反発している。参院で多数を占める野党の協力を見込めず、法案の廃案は確実だ。違憲状態を放置するに等しい。
 それでも民主党が突っ走ったのは、改革が実現しない責任を野党に押しつけたいからだろう。
 実際、樽床伸二幹事長代行は、審議を拒否した野党を「『1票の格差』是正さえやりたくない態度だ」と批判している。
 だが、民主党は、民自公3党が唯一折り合える格差是正の小選挙区「0増5減」の先行実施を拒み、制度改革を停滞させてきた。無責任な民主党に野党を批判する資格はない。結局、衆院解散・総選挙の先送り戦術ではないのか。
 そもそも民主党の法案は、「0増5減」や比例選定数の40削減、公明党が主張した比例代表連用制の部分導入を盛り込んでいる。
 各党の言い分をつなぎ合わせた制度は、極めて分かりにくい。中小政党を過剰に優遇する連用制には憲法上の疑義も指摘される。
 一方、自民党は29日にも、野田首相問責決議案を参院に提出する方針だ。決議案は野党の賛成多数で可決される見通しで、野党がその後、審議を一切拒否すれば、国会は多くの案件を積み残したまま事実上閉幕することになる。
 自民党の谷垣総裁は首相問責の理由として「日本の課題に対応する能力が限界に来ている」と言う。ただ、国政の混迷を招いた責任については野党も同罪だろう。
 例えば、赤字国債発行を可能とする特例公債法案だ。成立しないと、いずれ予算執行は不可能となる。野党は衆院解散と引き換えでなければ協力しないという。
 岡田副総理は、「与野党が代わることもある。こんなやり方はいいかげんにやめた方がいい」と指摘した。その通りだが、民主党こそ野党時代に特例公債法案など予算関連法案を駆け引きの材料としたことを忘れてはならない。
 自公両党などによって問責決議案が可決されれば、これまで構築してきた民自公路線は崩壊する。法的効力のない問責決議を政争に使うべきではない。

パラリンピック 五輪に続く感動を期待したい

 ロンドン五輪の感動と興奮が冷めやらぬ中で、あす29日、障害者スポーツの祭典・夏季パラリンピックが開幕する。
 166の国・地域から約4200人が参加する過去最大規模の大会だ。身体障害者に加え、知的障害者が出場する競技も3大会ぶりに復活する。
 4年前の北京大会から、五輪とパラリンピックは同じ組織委員会が運営する態勢になった。両脚義足の短距離走者オスカー・ピストリウス選手(南アフリカ)など、五輪とパラリンピックの両方に出場するアスリートもいる。
 障害の程度に応じた種目の数はかなり絞り込まれ、競技レベルは大会ごとに高まっている。五輪と同様、参加国はメダルの獲得数を競い合い、国威発揚の舞台にもなりつつある。
 今や「もう一つの五輪」というより、“五輪後半戦”と見ることもできるだろう。
 日本からは17競技に135選手が出場する。北京大会の27個を上回るメダルの獲得が目標だ。
 主将として選手団を率いる土田和歌子選手は、車いす陸上の5000メートルとマラソンに挑む。車いすテニスで世界屈指の実力を持つ国枝慎吾選手など、金メダルを狙える選手は少なくない。
 車いすバスケットボールには、東日本大震災で練習場を失ったクラブ「宮城MAX」から7人の選手が出場する。逆境を乗り越えて世界の舞台に立つ姿は、被災地を勇気づけるに違いない。
 英国はパラリンピック発祥の地である。ロンドンが前回1948年に五輪を開催した際、これに合わせて、近郊のストーク・マンデビル病院で車いすアーチェリーの競技を行ったのが始まりだ。
 64年後の今年、障害者スポーツの原点を想起しつつ、さらなる発展を目指す大会ともなろう。
 今大会は、2020年の五輪・パラリンピック招致を目指す東京にとっても、大いに参考になるはずだ。準備段階から五輪と一緒に計画を進め、同じ競技施設で行う種目も多い。
 五輪との一体的開催の方向を強めつつあるパラリンピックの将来像を明確に示すことが、東京招致実現の一つのカギになる。
 政府は障害者スポーツの支援態勢を拡充する必要がある。東京都などで組織する招致委員会は、障害者に配慮した都市の姿をアピールすることが重要だ。
 東京で開催する意義を分かりやすく提示してこそ、招致への国民の関心も高まるだろう。

2012年8月27日月曜日

穀物高騰―投機を抑える目配りを

 米国を襲った「56年ぶり」という記録的な干ばつで、穀物相場が高騰している。特にトウモロコシはシカゴの先物市場で過去最高値を記録し、小麦も引きずられて値上がりしている。
 このままでは、食料を輸入にたよる途上国の人々の生活が脅かされると、世界銀行のキム総裁が声明を出した。
 それだけではない。中国など新興国で食料が値上がりすると景気対策が打ちにくくなる。経済成長をリードするこれらの国の変調が深まれば、世界景気の足を引っ張りかねない。
 G20(主要20カ国・地域)は農業担当者による緊急会合の招集を検討している。輸出規制などの動きが市場の疑心暗鬼を生み、高騰がさらに助長されることがないよう、国際的な結束をはかるべきだ。
 高騰の震源地・米国では、環境保護局がトウモロコシの生産量の4割を使うバイオ燃料向けを減らせないか、検討に入った。こうした供給拡大の手立てを積み上げ、相場の行き過ぎを封じることも欠かせない。
 とはいえ、今回は2007~08年の高騰のような深刻な状況には至っていない。世界の他の産地を見渡せば、トウモロコシをふくめ供給が絶対的に足りないわけではないからだ。
 むしろ、米国の作柄をめぐる思惑から投機的な動きが相場を押し上げている面が大きい。
 そもそも米農務省はトウモロコシの豊作を予想していた。これが米国などでの在庫圧縮を招き、急激な値上がりの伏線になった。さらに相場の動きを増幅しているのが、日米欧の金融緩和で商品相場に流入するファンドなどの運用マネーだ。
 世界的な景気低迷で、主要国は金融緩和にますます頼っている。これが穀物高騰を招き、逆に景気回復を妨げることになりかねない。
 G20はこの際、商品市場で進む「金融化」に後れをとらないよう、需給の統計や予測の精度を高め、規制監督を強化するなど課題を総点検すべきだ。
 新興国などで食料需要が増しているなか、中長期的には、穀物増産に向けた投資を促すことも必要だろう。先進国で食料が大量に廃棄されている問題にもメスをいれねばなるまい。
 今回の高騰が日本におよぼす影響は限定的とみられる。円高や船賃の下落で価格が相殺されるからだ。
 だが、無関心では済まされない。国内で廃棄される食料は年間2千万トン、熱量換算で全体の4分の1にもなる。私たちに何ができるかも考えたい。

水道事業―節水で過剰投資を防げ

 家庭などの節電が効果をあげている。7月は全国で前年から12%余り販売電力量が減った。原発事故を起こした東京電力管内では、やはり節電を呼びかけた昨年より14%も少ない。
 暑さをしのぎ節電に取り組んだたまものではあるが、裏を返せばこうも言える。「電力の安定供給」を掲げる電力会社任せにしてきた結果、必要以上の過剰な投資がされてきた――。
 自治体が供給する水道も、同じことが言える。
 最大の水道事業者である東京都はこの春、9年ぶりに需給予測を見直した。人口減をみすえて全体を下方修正し、初めて右肩上がりの予測を改めて将来の減少を見込んだ。
 とはいえ、需要のピークは「2020年度の1日あたり約600万トン」。これに対し、10年度の実績は490万トンにすぎず、78年度の645万トンから減少傾向が続いている。見直しは全く不十分だ。
 過剰な予測に基づく投資は利用者の負担増につながる。今後、既存の浄水場などの更新だけで1兆円かかるという。社会構造や利用者の意識の変化をとらえて節水を促し、コスト削減への取り組みを強めるべきだ。
 水道の需要予測は、次のような手順を踏む。
 生活、工場など用途別に1日あたり平均使用量の見込みを出す。漏水分を考慮し、使用のピーク時に備えた修正をする。平均に対してピークを何倍と見込むかがカギだ。
 高度成長期以降、東京都の最高値は77年度の1.25倍。倍率は低下傾向にあり、昨年度は1.11倍。夏場の需要がかつてほどふくらまなくなった。
 東京都は今回の推計で77年度の1.25倍を使った。「災害対策も意識し、より長期的に見込んだ」という。
 対照的なのは、大阪府が3年前に行った見直しだ。
 大阪でも倍率は低下傾向にある。その原因を分析し、通年で使う屋内プールが増えたこと、エアコンの普及で夏場のシャワーの回数が減ったことなどを全国的な傾向として指摘。「倍率の上昇は考えにくい」とし、直前5年間の平均である1.14倍とした。
 渇水による給水制限は、東京では平成になってからも5回あった。安定供給は欠かせないが、だからといって八ツ場(やんば)ダム(群馬県)など国が開発中の施設からさらに水を買う、という発想はとるべきではない。
 今こそ節水を呼びかけ、需要を抑えて安定供給につなげる好機とすべきではないか。

北極海開発 日本の発言権をどう確保する

 北極海の航路利用や資源開発を巡って、ロシアやカナダなどの駆け引きが活発化している。日本も、北極海のルール作りに積極的に関与していくことが必要だ。
 厚い氷に閉ざされていた北極海は、地球温暖化に伴う海氷の融解で注目を集めるようになった。
 夏場に利用が可能となる北極海航路は、世界の成長センターのアジアと欧州をつなぐ最短輸送路として期待される。さらに北極海の海底には、石油・天然ガスのほか、金や銅、ニッケルなどの鉱物も豊富に眠っているとされる。
 北極海には各国の領有権主張の凍結と軍事利用禁止を定めた南極条約のような取り決めがない。
 このため、米露など沿岸諸国を中心とする8か国と少数先住民団体で構成する協議機関「北極評議会」が、北極海の利用に関するルールを話し合う場になる。
 目が離せないのは、中国の動きだ。日本と同様に非沿岸国でありながら、北極海の航路や資源などの利用を自国の「海洋権益」と位置づけ、国家戦略として影響力拡大を図っているからだ。
 今年は7月初めから、大型の砕氷船「雪竜号」で調査航海に出航し、8月中旬には、中国として初めて、ロシア北側の北極海航路の横断に成功した。
 評議会加盟国に対する首脳外交も活発だ。温家宝首相が4月に、現議長国スウェーデンとアイスランドを歴訪した。胡錦濤国家主席も6月にデンマークを訪れ、それぞれ関係強化で一致した。
 強大な軍事力をもつ中国の露骨な権益獲得の動きは、関係国に警戒感を抱かせるのに十分だ。
 北極海の利用は日本経済の発展にとっても欠かせない。にもかかわらず、日本の出遅れが目立っているのはどういうことか。
 日本政府は3年前、北極評議会にオブザーバー参加することを申請した。中国や韓国は日本に先駆けて申請済みだ。
 評議会の活動への貢献度がオブザーバー承認のカギを握っているとされる。政府はまず、オブザーバー加盟を果たして情報収集を強化し、発言権の確保に力を入れるべきだ。北極海に取り組む態勢整備を急がねばならない。
 首脳外交の推進によるロシアや北欧諸国との関係強化も重要だ。北極海の調査活動に本格的に乗り出す必要がある。
 日本の北方で中露海軍の活動が活発化するのは必至だ。防衛態勢をどう構築するか、米国との調整も今後の検討課題となろう。

電気自動車 超小型で新たな市場の開拓を

 次世代型の小さなクルマが、日本の自動車社会を大きく変える可能性に期待したい。
 地域の手軽な移動手段となる「超小型車」の実用化に向け、国土交通省や自動車メーカーが動き出した。
 超小型車は1~2人乗りの電気自動車(EV)で、軽自動車より一回り小さい。最高速度は時速80キロ・メートル程度、1日約10キロの近距離走行を想定している。
 欧州では、道が狭い街乗り用などに利用されている。日本では、自動車の規格が普通車や軽自動車などに限られ、超小型車の一般走行は認められていない。
 国交省は2010年度に始めた地域限定の実験に続き、今秋にも公道を走ることができる制度を導入し、希望自治体で実施する。
 数年先には、道路運送車両法を改正し、超小型車を新しい規格として法的に位置づけ、全国的な普及を目指す考えだ。
 半世紀ぶりに自動車の新ジャンルが誕生すれば、縮小が続く国内市場の活性化につながる。日本が世界をリードするEVの普及にも追い風となろう。官民が連携して実用化を急いでもらいたい。
 超小型車の魅力は、新たなニーズを開拓できそうなことだ。
 公共交通機関の撤退が目立つ地方では、高齢者の買い物などの足となるだろう。狭い路地でも小回りが利くため、小売業者の配達や観光地巡りにも使えそうだ。
 駐車場確保が難しい都市部ではマンション住民の共同利用が予想され、クルマ離れの進む若者向け販売が伸びるかもしれない。
 一方で、課題も少なくない。
 車体が極めて小さいため、大型車から見えにくい。衝突した場合の安全確保に不安がある。
 国交省は、安全性に十分配慮したうえで、超小型車の利便性を損なわないような安全性能基準を策定しなければならない。高齢運転者の体力や判断力の低下を補う安全装置なども考慮すべきだ。
 ただし、安全基準が厳し過ぎると、製造コストがかさんで販売価格を押し上げ、普及が進まない。現時点で多くのメーカーが開発に慎重姿勢なのは、そのためだ。
 本格普及を図るには、いずれ消費者への購入支援策や税制の優遇措置などを検討すべきだろう。
 道路交通を混乱させない対策も求められる。普通車などに比べて速度が遅い超小型車が一般道を走れば、交通渋滞の原因となりかねない。低速走行の専用レーンや駐車場の整備など、まちづくりの観点も重要である。

2012年8月26日日曜日

シリアでの死―山本さんが伝えた危機

 世界には、内戦で命を脅かされる人々が大勢いる。どんな壁にぶつかろうとも、苦境にある人々の側に立つという遺志を、私たちは忘れない。
 シリア北部アレッポでジャーナリスト山本美香さんが、政府系民兵によると見られる銃撃によって殺害された。
 山本さんはテレビ局で働いていたが、海外の紛争や内戦の取材に取り組むために、20歳代末に退社した。局の仕事で雲仙・普賢岳の火砕流災害の被災者を取材したのがきっかけだ。
 「突然大切な人を失うのは災害も紛争も同じ。自然に、紛争報道につながった」
 生前に、そう語っている。
 アフガニスタン、イラク、旧ユーゴスラビアなど、世界の紛争地や内戦の国を歩いた。
 国家と国家が戦争した時代、犠牲者の多くは兵士だった。多くの市民を巻き込んだ大戦を経て、現代に頻発する内戦では、国境の内側で政府と反政府側が攻撃しあう。犠牲者の大半は、戦闘に加わらない一般市民だ。
 シリア内戦での犠牲者は2万5千人、周辺国に逃れた難民は20万人を超えた。
 市民が犠牲になるという点において、戦争と自然災害は共通する。巨大地震や津波、洪水で被害を受けるのも、ふつうに暮らす人たちだ。
 昨年の東日本大震災の後、山本さんは被災地を訪ね、被害の様子を記録した。故郷を去らねばならなかった被災者と、命をかけて国境を越える難民の姿が重なって見えたのだろう。
 被災地や紛争地で彼女は、女性や子どもをはじめ、弱い立場にされがちな人たちの姿を、大切に伝えた。
 シリアのアサド政権は、昨年から始まったアラブの春による民主化要求を、受け入れない。自国民が住む地域を戦闘機と戦車で攻撃する政府とは何だろうか。反体制派の自由シリア軍は抵抗を強め、今年6月以降は本格的な内戦状態になった。
 山本さんをはじめ、経験を積んだジャーナリストが何人も命を落とすひどい状況だ。
 なのに国連安保理の足並みはそろっていない。国連特使のアナン前国連事務総長は対話による解決を果たせず、退任する。国連の監視団は撤退した。
 山本さんが死の直前まで撮った映像に、赤ん坊を連れて避難する住民の姿があった。政府側が住居地域に無差別攻撃している事実を裏付けるものだ。
 極限の危機に置かれた人々が生きる場に入り、その現実を世界に伝える。ジャーナリズムの重い責務を改めてかみしめる。

生活保護改革―本気で自立の支援を

 生活保護は、他に生きる方法がないときの最後の安全網だ。それに対する視線が厳しい。来年度予算の要求にあたり、政府は「最大限の効率化」を図るように名指しした。
 だが、単に削ろうとすれば、かつての「母子加算廃止」のように、声を上げにくい人にしわ寄せがいく。自治体が窓口で申請を受け付けない、そんなことが起きるおそれもある。
 保護費が大きくなるのを本気で防ぐには、貧困におちいった人の自立を助ける、地道な努力しかない。そこに、予算をはじめ、社会の資源が適切に投じられるべきだ。
 生活保護をめぐる社会の雰囲気は、特定の出来事をきっかけに大きく揺れる。
 2007年に北九州市で、生活保護が打ち切りになった男性が「おにぎり食べたい」と書き残して餓死した。この時は、行政のあり方が指弾された。
 今年は、タレントの母親が保護を受けていたことが引き金となり、「受給者バッシング」が強まっている。
 全体からみた金額は小さくとも、不正受給は人々の怒りを増幅する。資産や所得、医療の適切さの点検は必要だ。
 だが、いま一番問題なのは、雇用の悪化により、「まだ若くて働けるが、生活に困っている人」が増えていることだ。
 「働けるから」といって放っておけば、心身を病んでしまうことも多い。「誰が見ても働けない」状態になってから生活保護に入れても、今度はそこから働けるようになるまでの時間がかかる。悪循環だ。
 困っている人を「救うかどうか」の判断は、個人の価値観にもよるので、線引きが難しい。だが「自立を支援する」ことへの異論はないはずだ。
 早めに、ていねいに対策をとれば費用対効果は高い。
 たとえば横浜市では昨年度、約2億円かけて就労支援の専門員を48人置いた。その結果、2千人近くが職に就き、保護費を8億5千万円減らした。
 経済効果の不明な道路をつくるより、よほど役に立つ。
 自治体が「働ける人は、早期に自立してもらえる」という自信を持ち、生活保護を「入りやすく、出やすい」制度にする。そんな好循環をつくりたい。
 問題は、こうした自立支援の事業を支える財源が不安定なことだ。政府はいま、来年から7カ年の計画で「生活支援戦略」を考えている。公共事業で「国土強靱(きょうじん)化」するより、ずっとまっとうで、社会を強くするお金の使い方だろう。

エネルギー選択 「意識調査」はあくまで参考に

 国の命運を左右するエネルギー戦略を、人気投票のような手法で決めるのは問題である。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け、「脱原発」を求める声は少なくない。
 だが、エネルギー政策では、原発の安全性に加えて、経済性や安定供給なども重要だ。資源小国の日本が電力を安定確保するには、原発を含む多様な電源が要る。
 政府は、原発を中長期的に活用するという現実的なエネルギー政策を推進すべきである。
 2030年の電源に占める原子力発電の比率を「0%」「15%」「20~25%」とする三つの選択肢について、政府が行った複数の意識調査の結果がまとまった。
 11回の「意見聴取会」と「パブリックコメント(意見公募)」、新たな手法の「討論型世論調査」は、いずれの調査も「原発0%」の支持が最多だった。
 ただし、この結果をもって原発政策に関する“世論”が示されたと考えるのは早計だろう。
 意見聴取会やパブリックコメントの参加者は、原発問題で積極的に意見を言いたい人が多いため、脱原発に偏る傾向がある。
 討論型世論調査も、最初の電話調査は無作為抽出だが、その後の討論会は希望者参加で、人数も約300人と少なかった。
 政治が国民の意見を聴くのは大切だが、受け止め方によっては、場当たり的な大衆迎合主義(ポピュリズム)に陥る恐れがある。
 調査結果を分析する政府の有識者会議では、「世論調査だけで物事が決まるなら、政治は不要だ」といった意見も出た。
 これらの調査結果はあくまで参考にとどめ、政策へのダイレクトな反映は避けるべきだろう。
 一方、政府にとっての課題も判明した。討論型世論調査で「原発0%」の支持は、討論前の41%から討論後は47%に上昇した。
 エネルギー政策で、「安全の確保」を最重視する人が、討論前より増え、最終的に8割に達したことが影響したようだ。
 ただ、誰しも「安全」への関心が高いため、「安定供給」や「地球温暖化防止」を選ぶ比率が低くなったのではないか。
 原発ゼロでは、日本経済が失速し、失業増や貧困拡大を招く。最大の被害者は国民だが、なぜかこうした認識は浸透していない。
 政府は原発の安全性向上に一層努めるとともに、的確なエネルギー選択に資する情報を、国民に提供することが求められる。

教員養成改革 指導力ある若手の育成を急げ

 教員になる人には、大学の4年間に加え、大学院で修士レベルの教育を受けてもらう――。
 教員の資質向上策として、中央教育審議会が近く文部科学相に提出する答申案にそんな提言が盛り込まれた。
 いじめや不登校など、学校で深刻な問題が増えているにもかかわらず、教員が適切に対処できていないとの批判は根強い。
 近年、教育現場では、大量採用されたベテラン教員の退職や業務の多忙化などで、若手教員を育てる余裕が失われつつある。教員同士が学び合い、指導法を受け継ぐという雰囲気も乏しいようだ。
 教員養成システムが手直しを迫られているのは確かだろう。
 答申案によると、学部4年を修了すると、仮免許ともいえる「基礎免許」、その後、大学院で必要な課程を履修すれば「一般免許」を付与する。基礎免許のみでも教壇に立てるが、一定期間内に一般免許の取得を求めるという。
 校長経験者ら実務家が指導にあたり、学校での実習を重ねる養成方法の確立を目指す。その中核として想定しているのが、2008年に開設された教職大学院だ。
 養成にある程度、時間をかけ、実践的な指導力を身につけさせるという狙いは理解できる。
 ただ、教職大学院は現在、25校にとどまる。定員は計815人で、毎年の教員採用数(公立で3万人)に遠く及ばない。受け皿整備は今後の重要な課題である。
 大学院に通う学費負担の問題もある。奨学金など適切な支援がなければ、優秀で意欲のある人材が経済的な理由から教員志望を断念することになりかねない。
 今後10年間は、定年を迎える教員の大量退職が見込まれ、教員全体の約3分の1が入れ替わる。若手教員の養成は喫緊の課題だ。
 「修士制」導入の検討と並行して、教員養成に携わる大学が自ら、カリキュラムの改善を早急に進めることが肝要である。
 大学側は、教員を採用して学校に配置する教育委員会と密接に情報交換を重ねるべきだ。指導内容が現場のニーズに即しているかどうかについても、厳しく点検しなければならない。
 社会人に教員への門戸を開くことも大切だ。例えば、科学の研究者が教員として、その面白さを伝えれば、子供の理科離れを防ぐ一助となろう。子供の英語力向上に役立つ人材も登用したい。
 幅広い層の多彩な経験を生かすことが、教育現場の活性化につながるはずだ。

2012年8月25日土曜日

日本と韓国―非難の応酬に益はない

 こんな不毛な非難の応酬を続けていて、いったいだれが得をするというのだ。
 竹島の領有問題などをめぐってヒートアップした日本と韓国は、いいかげんに頭を冷やすべきだ。かけがえのない隣国同士である。いつまでも異常な関係を続けるわけにはいかない。
 韓国政府は、野田首相が李明博(イ・ミョンバク)大統領に送った親書を郵便で送り返してきた。
 大統領の竹島上陸に「遺憾の意」を伝えた内容が「容認できない」というのだ。
 だが、いくら気にくわないといっても、首相が署名した書簡を送り返すのは外交上、あまりに礼を失している。とても受け入れるわけにはいかない。
 もっとも、親書を返しにきた韓国大使館の職員を外務省が敷地に入れずに門前払いしたこともまた、大人げないと言われても仕方のない振る舞いだ。
 そんな売りことばに買いことばのようなことを繰り返していたら、問題の本質とはかけ離れたところで両国民の感情に火がつきかねない。
 残念なことに、韓国の新聞を見ると、首をかしげざるを得ない論評が目につく。
 たとえば、日本による領有権問題の国際司法裁判所への提訴について「20世紀初頭に韓国を併合した侵略根性の発露と言わざるを得ない」と書いた主要紙もある。
 韓国の国民は、1905年の竹島の島根県への編入は、5年後の日韓併合への第一歩だと受け止めている。
 こうした歴史に対する思いが背景にあるにしても、韓国人が事務総長を務める国連の主要機関への提訴を「侵略根性の発露」と決めつけられては、多くの日本人は戸惑うばかりだ。
 日本も韓国も、選挙の季節に入りつつある。自民党の谷垣総裁は「野田政権には主権と領土を守る能力が欠如している」と、この問題を理由に早期の衆院解散を求めている。
 しかし、国内政治やメディアの圧力が政権の強硬姿勢の背中を押し、対立をあおる構図は危険きわまりない。
 衆院はきのう、李大統領の竹島上陸を非難し、天皇に対する発言の撤回を求める決議をした。野田首相も発言の撤回と謝罪を求めた。一方で、ともに韓国を「重要な隣国」であるとも表明している。
 領土をめぐる対立が、両国関係全体や東アジアの安定を壊す愚を犯してはならない。むしろこれを奇貨として、戦後の日韓関係に刺さったままのトゲを抜く方向に進めることである。

中3の労災死―進学せぬ子に支援を

 栃木県足利市の中学3年生が今月、群馬県の工事現場でアルバイトをしていて事故に遭い、亡くなった。まだ14歳だった。
 生徒の中学校は「不登校や学校生活になじめない生徒やその親から申し出があり、職場体験ということにして認めていた」と言っている。
 法や決まりに照らして、中学校や建設会社の判断を認めることはできない。
 市教育委員会によると、同じ建設会社で過去10年間に、4校の中学生計17人が働いていた。労働基準法は中学生を建設業で働かせることを禁じている。
 しかも、その中には授業のある日に働いていた生徒もいた。生徒らは日当をもらっており、教育活動としての「職場体験」にもあたらない。
 ただ、この事件は、学校になじめない子たちに行き場がないという現実を映し出した。
 全国的な調査はないが、不登校の中学生が働いているのは足利市だけではないだろう。
 そうした子たちがなし崩しで働くのではなく、きちんと進路を考えられる場が必要だ。この機会に考えるべきだ。
 労働政策研究・研修機構が、総務省の統計をもとにこんな分析をしている。中卒や高校中退の15~19歳の子のうち16%は、仕事も就活もしていない。いわゆるニートの状態にある。
 中学生の98%は高校に進学する。就職を見すえたキャリア教育を中学校でするのは難しい。
 大半の公立中が「職場体験」の授業をしているが、多くは年に1~3日だ。働く意義や自分の将来を考える大切さを学ぶ。そんな入門的な位置づけだ。
 同時に、進学しない2%の生徒への支援も重要だ。
 就職を望む生徒には、ハローワークと手を結んで個別に働き口を紹介している。けれど、どんな仕事をしたいかさえわからずにいる生徒たちは、それだけでは救えない。
 福岡市のNPO「不登校サポートネット」の長阿彌幹生(ちょうあみ・みきお)代表は来年度、地元の経営者と中卒の子たちを集め、「中卒からの就職説明会」を開く計画をたてている。中学生も来られるよう週末に催すつもりだという。
 市教委や市役所も協力してくれるよう働きかける考えだ。
 親に「高校を出ないと就職できない」という思い込みが強いと、子は救われない。中学を出て働く道もあることを、見せたい。長阿彌さんはそう語る。
 こうした取り組みを各地に広げてはどうだろう。子どもたちには、やってみたい仕事と出会える場が必要だ。

首相「領土」会見 国際社会へ反転攻勢の一歩に

 竹島などの領土問題で日本が国内外の理解を求めて反転攻勢に出る一歩とすべきだ。
 野田首相が領土に関し記者会見し、「毅然(きぜん)とした態度で、冷静沈着に不退転の覚悟で臨む」と述べた。
 竹島については、「歴史的にも国際法上も日本の領土だ」と明言した。さらに、「国際社会の法と正義に照らして、国際司法裁判所の法廷で議論を戦わせ、決着をつけるのが王道だ」と強調した。
 首相が、国の主権を守ると正面から訴えたのは画期的である。
 韓国が竹島に建造物を勝手に建設するなど、不法占拠を着々と強化してきたのに対し、日本は抗議はするものの、有効な対抗策を講じてきたとは言えない。
 今回の提訴を機に、日本の領有権の正当性や根拠を国際社会に幅広くアピールすることが大切だ。国内でも、竹島問題に関する過去の経緯を詳しく説明し、より多くの国民が正しい認識を共有するよう努める必要がある。
 首相は、香港活動家が不法上陸した尖閣諸島について、再発防止へ、「政府の総力を挙げて情報収集を強化し、周辺海域の監視・警戒に万全を期す」と語った。
 日本が実効支配する尖閣諸島に関しては、より安定した維持・管理ができるよう国有化の実現が急務だ。島を購入する予定の東京都との緊密な連携が重要である。
 他国による不法上陸や領海侵犯などに迅速に対処するため、海上保安庁や海上自衛隊の体制を強化することも怠ってはならない。
 外務省は、韓国側から返送された首相の李明博大統領宛て親書を受理し、再送はしなかった。
 首脳の親書の返送は異例かつ非礼だが、大統領の竹島訪問を遺憾とする首相のメッセージが伝わった以上、「外交の品位」を考えて受理するという玄葉外相らの大局的な判断は理解できる。
 衆院は、大統領の竹島訪問と天皇陛下「謝罪要求」発言に抗議する決議を採択した。韓国による竹島の不法占拠の停止や、発言の撤回を求めている。大統領発言には、日本だけでなく、韓国国内でも批判があり、撤回要求は当然だ。
 決議は、韓国を「重要な隣国」と位置づけるなど、バランスのとれた内容だ。共産、社民両党などが賛成せず、全会一致とならなかったのは残念である。
 日韓両国は、北朝鮮の核問題など安全保障分野でも利害を共有している。韓国には、日韓関係の大局を見失わず、「大人の対応」をするよう求めたい。

原発と活断層 甚大な被害の防止に力を注げ

 原子力発電所の安全対策は、日本が有数の「災害大国」であることを前提とせねばならない。
 経済産業省の原子力安全・保安院が、福井県内の原子力発電所2か所に対し、敷地内に活断層があるかどうかを再調査するよう指示した。
 関西電力美浜原発と日本原子力研究開発機構の高速増殖原型炉「もんじゅ」だ。これにより、再調査の対象は、国内18か所の原発のうち6か所になった。このほか3か所についても、保安院は再調査の必要性を検討している。
 敷地内に活断層がないとされるのは、日本原電東海第二、中国電力島根、四国電力伊方、九州電力玄海、川内など9か所だ。
 原子炉建屋の直近または真下にある活断層が動けば、原子炉や重要設備が傾いたり、倒れたりして壊れる可能性もある。
 危険性の有無を見極めるため、地層の詳細な調査を、厳密かつ迅速に実施すべきだ。
 再調査が相次ぐ理由は、東日本大震災で日本の地殻の状態が変わり、動かないとされてきた断層が動く例が出てきたことによる。
 活断層の定義も変わった。政府の耐震設計審査指針が2006年に改定され、考慮すべき断層の活動時期が、5万年前以降から、12万~13万年前以降に広がった。
 これらを受け、保安院が原発設置時の資料などを点検した結果、活断層と疑わざるを得ない敷地内の亀裂が次々見つかった。
 電力会社は、安全のハードルが上がると受け止めている。原子炉直下に活断層があることが確定すれば、政府の耐震指針に適合しなくなり、廃炉を迫られよう。
 だが、それもやむを得まい。
 東京電力福島第一原発の事故は政府と東電が大津波のリスクを軽視してきたことが主因だ。教訓を生かすには、発生確率は低くとも、甚大な被害をもたらす事故の再発を防ぐことが欠かせない。
 ただ、再調査しても、活断層の有無を100%正しく判断することは容易ではない。活断層はないとされてきた場所で大地震が起きた例もある。
 こうした「想定外」への対応も急ぎたい。原子炉が傾いて炉心溶融などの破局的な事態になるのを防ぐ安全対策が必須である。
 新設の原子力規制委員会が、再調査の結果評価や、想定外への対応の基準作りを担う。
 しかし、国会の混乱で委員長や委員の人事に同意が得られていない。原発を安全に利用するには、規制委の早期発足が必要だ。

2012年8月24日金曜日

衆院定数是正―いつまでサボるのか

 国会会期末まで2週間余を残すのみというのに、政治の怠慢、無責任にあきれる。
 民主党が、衆院の選挙制度改革法案を野党欠席のまま審議入りさせた。赤字国債発行法案は与党単独でも衆院を通過させる方針だ。
 自民、公明両党などはこれに反発し、参院に野田首相の問責決議案を出すという。
 消費増税関連法案での3党協力もつかの間、またもや全面対決に逆戻りである。
 解散・総選挙の時期をなるべく先送りしたい民主党。今国会中に解散に追い込みたい自公両党。それぞれの党利党略が背景にある。
 だが、どんなに遅くても、総選挙は1年以内に行われる。その前提となるのが、衆院小選挙区の「一票の格差」の是正だ。区割りと周知期間に数カ月かかることを思えば、今国会での格差是正は待ったなしだ。
 「近いうち」に解散することで合意した首相と谷垣自民党総裁は、その責任も共有していることを忘れてはならない。
 あらためて両党首に問う。
 「一票の格差」を放置したまま、民意を問えると本気で思っているのか。
 このまま選挙をすれば、裁判で「選挙無効」と判断され、失職する議員が出かねない。そうなれば国会の大混乱は必至だ。
 一票の価値の平等は、代議制の根幹であり、政治そのものの正統性にかかわる。そのことをあまりに軽く見ていないか。
 最高裁に「違憲状態」と断じられてから1年5カ月。立法府として、これ以上の不作為が許されないのは明らかだ。
 民主党が強引に審議を進める法案は説得力がまるでない。
 小選挙区の定数を「0増5減」し、格差を是正する。比例区は「身を切る改革」として40減らす。比例区の一部に小政党に有利とされる連用制を導入する――。そんな内容だ。
 一つの選挙を小選挙区と比例代表、連用制の三つの制度で行う。複雑怪奇もいいところだ。
 それとも、わざと不合理な案にこだわり、解散を遅らせる口実にするつもりなのか。
 とはいえ、残された会期は短い。ここはもう、違憲状態の解消を最優先にするしかない。
 今国会では、やむをえない緊急の措置として、自民党の対案を受け入れ、「0増5減」の先行実施で歩み寄るべきだ。
 もちろん、それで一件落着とはいかない。
 抜本改革は、首相の諮問機関の選挙制度審議会を立ち上げてじっくり取り組めばいい。

ベトナムに原発―国益不明の輸出やめよ

 閣僚がベトナムを相次いで訪れ、原発建設への協力を念押ししている。政府は国内では脱原発依存を掲げる一方、輸出は促進する。そこに整合性はない。
 枝野幸男経済産業相はハノイで、原発事故が起きた際の損害賠償制度の整備に協力する覚書に署名した。「福島第一原発の事故の教訓をふまえ、世界最高水準の安全性を備えた原発建設で協力したい」という。
 だが、福島の事故は原因の究明も道半ばだ。必要になる賠償が、これからどこまで広がるかもわからない。自分のところがそんな状況で、他国に何を教えると約束できるのか。
 政府は2030年の原発割合を0%、15%、20~25%とする三つの選択肢を示している。
 枝野氏は、原発ゼロに前向きな発言をするかたわら、輸出の旗を振っている。その姿勢はわかりにくい。
 原発の建設・運営は、廃炉や廃棄物処理までを考えると、他の事業とは比べものにならないほど長期にわたる営みだ。
 いったん事故があれば、被害は甚大かつ長期に及ぶことが福島で改めて示された。
 民間が自力で造るわけではない。性格が新幹線や道路、港湾などとは大きく異なるのに、政府がインフラ輸出の一環として取り組むことが問題だ。
 輸出といえば商行為に聞こえるが、事前の調査から日本政府の丸抱えだ。約1兆円とされる事業費の大部分は、日本の公金で低利融資される。技術者育成も支援する。ベトナム側は廃棄物処理への協力も求めている。
 事故があったときの責任分担は決まっていない。だが、これだけ深くかかわれば、責任も相当に負うことになろう。
 成長戦略の名の下に、関係する日本企業の売り上げは増え、利益があがるかもしれない。
 しかし国民全体が背負うリスクは途方もない。国益に資するとはとても思えない。
 一党独裁のベトナムでは、言論や表現の自由が制限されている。他の事業以上に求められる原発建設の透明性はまったく担保されていない。
 導入可能性調査は日本原子力発電が随意契約で受注したが、調査結果は契約上、非公開という。費用20億円は全額日本政府の負担だが、日本国民はその内容を知ることもできない。
 メディアや研究者がニントアン省の予定地を訪れることさえベトナム政府はほとんど認めない。原発反対の署名を呼びかけたブログは一時閉鎖された。
 両国民に必要な情報も開示されない事業は打ち切るべきだ。

竹島・尖閣審議 民主は「配慮外交」を反省せよ

 領土問題では、毅然(きぜん)として自国の立場を主張するとともに、平和的な解決を冷静に追求することが肝要である。
 衆院予算委員会で外交に関する集中審議が行われた。李明博韓国大統領宛ての野田首相の親書を韓国政府が返送すると発表したことについて、首相は「あまりにも冷静さを欠いた行動」と不快感を表明した。
 親書は李大統領の竹島訪問に遺憾の意を表する内容だが、それを返送するのは外交慣例上、極めて非礼であり、看過できない。どんなに主張が対立しても、外交には最低限守るべきマナーがある。韓国の対応は一線を越えている。
 政府は強く抗議すべきだ。ただ、その際は、外交儀礼をきちんと守って対応することが大切だ。
 玄葉外相は予算委で、竹島の現況について韓国が「不法占拠」していると強調した。民主党政権は岡田外相以降、韓国側への配慮から「法的根拠のない支配」と表現しており、玄葉外相が初めて「不法占拠」との表現を用いた。
 あまりに遅きに失している。国家主権に関する問題でさえ、相手国を刺激しないという民主党政権の過剰な「配慮外交」が、日本は簡単に譲歩するという誤解を韓国側に与えたことは否めない。
 いわゆる従軍慰安婦問題でも、賠償請求権問題は完全に解決しているのに、前原政調会長が新たな「人道的措置」の検討を表明したことなどが、韓国側に誤った期待感を抱かせた可能性がある。
 政府は一連の経緯を反省し、今後の対応を検討すべきだ。
 野田首相は予算委で、李大統領の天皇陛下への謝罪要求発言について、謝罪と撤回を求める意向を表明した。韓国外交通商省報道官は、玄葉外相の「不法占拠」発言の撤回と再発防止を要求した。
 日韓関係は今や、「負の連鎖」に入り始めている。竹島問題で対立しても、日韓関係全体が悪化するのは避けたい。日中韓の自由貿易協定(FTA)交渉など実務的な協議は継続するよう、日韓双方が努めることが重要である。
 集中審議で自民党は、政府が香港活動家による尖閣諸島不法上陸を阻止できず、公務執行妨害罪を問わなかった点を追及した。
 領土問題では本来、オール日本の体制で外交を展開することが望ましい。自民党が政府の揚げ足取りに終始するようでは困る。
 日本の主張を国際社会に積極的に発信し、学校での歴史教育を充実させるなど、超党派で取り組むべきことは少なくない。

ロシア経済 WTO加盟で自由貿易促進を

 ロシアが156番目のメンバーとして、世界貿易機関(WTO)に加盟した。自由貿易を促進し経済成長に弾みをつけることが期待されよう。
 1993年に加盟申請したロシアは、未加盟の「最後の大国」と呼ばれた。ロシアがようやく、WTOルールに基づく自由貿易体制に加わった意義は大きい。
 原油などエネルギー価格の上昇を追い風に、ロシアは堅調な経済成長が続いているが、資源依存体質からの脱却が課題だ。市場開放による貿易拡大とともに、海外から投資を呼び込み、経済構造を転換する必要がある。
 2001年にWTO加盟後、貿易と投資の拡大で急成長した中国が、ロシアのモデルとなろう。
 ロシアはWTO加盟に合わせ、工業製品などの段階的な輸入関税率引き下げを約束している。
 品目別では、乗用車は現行30%をすぐに25%とした後、7年かけて15%に下げる。家電や電子製品も15%を7~9%とする。コンピューターなどIT(情報技術)製品についても、将来的に関税ゼロとする方針を打ち出した。
 ロシアは、これらの市場開放を着実に進めてもらいたい。煩雑な通関手続きを改善し、貿易拡大につなげることも大事だ。海外からの投資を妨げる障壁の削減にも取り組まねばならない。
 日露貿易額は増えているが、さらに伸びる余地があり、日本企業にはチャンスが広がる。とくに主力輸出品である自動車分野が有望だ。自動車各社は、ロシア戦略を強化してほしい。
 懸念されるのは、ロシアがこれまで、自動車関税率引き上げや穀物輸出規制など、一方的な不公正貿易措置を導入したことだ。
 廃車時の費用を税金として徴収する廃車処理税も新たに準備している。日本車などが狙い撃ちされれば、輸出に不利になる。
 ロシアは加盟とともに、WTOルールを順守する義務を負う。ルールに違反する不公正貿易措置を導入すれば、他国からWTOに提訴される可能性が高いだろう。
 新興国で相次いでいる保護貿易措置が、ロシアの姿勢に影響を与えかねないことも気がかりだ。
 インドネシアはニッケル、銅などに輸出関税をかけ、アルゼンチンは自動車などの輸入に許可制を導入した。ブラジルも、自動車部品の現地調達比率を高めるよう、貿易相手国に要求している。
 日本は欧米と連携し、ロシアに限らず、新興国の不公正貿易措置の是正を求めねばならない。

2012年8月23日木曜日

首相との対話―開かれた政治の一歩に

 両者の溝は埋まらなかった。それでも意義は小さくない。
 首相官邸前で「脱原発」を求める抗議行動の主催者らが、きのう官邸内に招かれ、野田首相に会って抗議した。
 経済団体や労働組合に属さぬ「組織されない市民」が首相に直接訴えるのは異例だ。これまでの政治の意思決定の仕方や、政治文化を変える可能性をはらんでいる。評価したい。
 20分の予定は30分に延びた。だが、中身は平行線だった。
 主催者の市民らの要求は(1)大飯原発の再稼働中止(2)全原発を再稼働させない(3)全原発廃炉への政策転換(4)原子力規制委員会の人事案の白紙撤回、だ。
 主催者らは口々に訴えた。原発がとまっても電力は足りている。大飯には活断層の存在が疑われ、危険だ……。
 首相は、中長期的に原発依存を改めるとの政府方針を説明したが、それ以上の歩み寄りはなかった。「ほとんど承服しかねる」が、主催者らの返答だ。
 溝は深かった。
 それにしても、もっと時間をとり、首相の口から説明を尽くすべきだった。そうすれば、意義はより大きくなった。
 むろん、主催者たちは民意を広く代表するわけではない。抗議行動の場を提供しているが、参加者の代表とも言いがたい。
 しかし、面会の模様はネットで生中継され、数多くの市民がみた。それは、首相と市民とをつなぐ新たな回路の役割を果たしただろう。
 市民の抗議は、再稼働だけに向けられているわけではない。
 それを決めた意思決定の仕組みと、民意を代表すると想定されている間接民主主義の機能不全への異議申し立てだ。
 ものごとを政治家と既得権を持つ組織の代表や一部の専門家で決め、ふつうの市民はかかわりにくいのが、従来の「ムラ社会」型の意思決定の仕組みだ。
 典型が電力であり、「原子力ムラ」による政策決定だ。
 電力会社の利益が優先され、自分たちの安全が軽んじられるのではないか……。
 不信はそこに根ざしている。
 組織されない市民の声を、どう政策決定に組み込むか。エネルギー政策の意見を聞く討論型世論調査は試みのひとつだが、ほかにも様々な回路を開かなければならない。
 今回のような面会も、一回で終わらせず、次の機会を持つべきだ。今度は抗議だけに終わらせず、胸襟を開いた対話と呼べるものにしよう。
 これを、開かれた政治への一歩とすべきである。

竹島提訴―大局に立つ日韓関係を

 竹島の領有権問題をめぐり、日本政府が韓国政府に対し、国際司法裁判所(ICJ)に共同で提訴するよう求めた。
 韓国に応じる気配はなく、裁判が開かれる見通しはない。
 それでも、領土問題という感情的対立に陥りやすい問題を、国際法で公平に解決しようという呼びかけは、説得力がある。
 日本政府が韓国の不法占拠に対し、自らの立場を国際社会に訴える意味合いもある。
 日本は長年、韓国に配慮して提訴を控えてきたが、李明博(イ・ミョンバク)大統領の竹島上陸は一線を越えるものだった。天皇に謝罪を求める発言への反発も強い。対抗措置は当然のことだろう。
 韓国側は野田首相の親書を送り返すという。外交では異例なことだが、不協和音を強めるだけでは出口が見えない。北朝鮮や中国を見据えると、北東アジアの安定にとって、日韓関係はますます大事になっている。
 野田政権は閣僚同士の対話延期も打ち出した。経済や科学技術など他分野の対話を止めれば、日本にも不利益が生じる。対抗措置と大局に立つ外交を賢く組み合わせる必要がある。
 落ち着いた関係を築くには、歴史問題にも、もう一度向き合わざるを得ない。
 李大統領は竹島上陸の理由に、慰安婦問題で進展が得られなかったことを挙げた。
 日本政府は1965年の日韓協定で解決済みとの立場だが、93年の官房長官談話で旧日本軍の関与を認め、謝罪した。民間主導のアジア女性基金を通じ、償い事業も行った。
 そうした努力自体は韓国の人たちにも理解してもらいたい。その上で、まだ出来ることがあるのか、両国で考えればいい。
 残念なのは、日本側で歴史認識への疑問を呼び覚ますような言動が繰り返されることだ。
 2007年には当時の安倍晋三首相が、当局が無理やり連行する「狭義の強制性」はなかったと主張。米下院が日本に謝罪を求める決議を採択するなど、国際社会で強い批判を浴びた。
 問題の本質は、尊厳を踏みにじる行為が本人の意に反して行われ、そこに国が関与していたことだ。こうした発言はかえって日本の立場を弱める。
 このところ、経済的に存在感を増す韓国に対し、日本は自信喪失気味だ。韓国にとっての日本の位置づけも変わり、人的パイプも以前ほど太くない。
 韓国では12月に大統領選があり、李大統領の求心力は低下している。次期政権も見据えて、政治、外交、民間の各層で関係を築き直す必要がある。

首相と反原発派 禍根残す面会パフォーマンス

 民主党政権の場当たり的な大衆迎合主義(ポピュリズム)を象徴する出来事と言えよう。
 野田首相が、首相官邸前で反原発デモを続ける「首都圏反原発連合」のメンバーと面会した。
 関西電力大飯原発3、4号機の再稼働撤回をメンバーが求めたのに対し、首相は「安全性を確認し再稼働した」と説明した。
 国民の生活を守るという大局的見地から再稼働させた首相と、ハナから原発不要論を唱える反原発団体が折り合えるはずもない。
 異例の面会に応じたのは、首相が「国民の声に耳を傾ける」という姿勢を示す狙いからだろう。
 だが、首相が短時間とはいえ、反原発団体と面会したことは禍根を残したのではないか。反原発デモに一定の理解を示したと誤解されかねない。首相はこうした対応を今回限りとすべきだ。
 むろん国民の多様な意見を聞くことは重要だが、首相はこれまでも国会論戦や記者会見などを通じてさまざまな意見に接し、国民の疑問に丁寧に答えている。
 枝野経済産業相は、首相とデモ代表との面会について「直接に誰かだけとやれば誤解を招く」として、パブリックコメント(意見公募)や討論型世論調査などを活用すべきだと主張している。
 大阪市の橋下徹市長も「デモの大きさや人数で、会う会わないを決めるのは行政としてどうなのか。一定のルールが民主主義には必要だ」と疑問を呈していた。
 どちらも妥当な指摘である。
 一方で、民主党の首相経験者2人が、面会の実現を首相に求めたことは理解に苦しむ。
 鳩山元首相は首相官邸前のデモに加わり、「原発再稼働はやめるべきだと思う」などと演説した。菅前首相は反原発デモを「新しい政治参加のうねりだ」などと持ち上げ、面会にも同席した。
 首相経験者が、現首相の方針に公然と反対し、反原発デモに肩入れするのはあまりに無責任だ。
 鳩山氏は首相退陣時、もう影響力を行使しないと述べた。それを忘れたかのような振る舞いは見苦しい。菅氏も展望なき脱原発路線で再稼働に待ったをかけ、深刻な電力不足を引き起こした。
 原発を利用しないと経済が立ち行かないという現実をわかろうとしない両氏に、これ以上、振り回されてはならない。
 首相の判断で原発を再稼働させたことで、電力危機が回避されたのである。引き続き現実的なエネルギー政策を推進すべきだ。

シリア混迷 周辺諸国の不安定化も心配だ

 内戦の泥沼化で、停戦への機運は生まれそうにない。シリアの混乱が周辺諸国に拡大する事態すら懸念される。
 北部の主要都市アレッポでは、取材中の日本人ジャーナリスト山本美香さんが、銃撃を受けて死亡した。
 一般市民が暮らす市街地が、政府軍側と反体制派の戦場と化している。山本さんの死は、そうした現実を浮き彫りにした。国連推計で、紛争発生以来の犠牲者数は1万8000人を超えた。
 国連とアラブ連盟の共同特使を務めたアナン前国連事務総長の停戦調停は、失敗に終わった。国連停戦監視団も撤退した。
 アナン氏の後任の調停役にはブラヒミ元アルジェリア外相が就くが、米欧と露中の対立で国連安全保障理事会が機能不全に陥っている以上、役目は果たせまい。
 内戦に歯止めがかからず、流血の拡大は不可避である。
 シリアでは、反体制派が支配地域を広げる一方、政権側は、圧倒的な戦力を総動員して、主要都市の維持を図っている。
 だが、政権中枢からの離反は相次いでいる。今月上旬には、首相が国外に逃亡した。
 それでも軍がアサド大統領を見限らないのは、大統領の権力基盤であるイスラム教アラウィ派の人脈が、軍の要職に配置されていることが大きい。
 シリアのアラウィ派は、人口では少数派ながら、多数派のスンニ派住民を支配してきた。
 内戦は、両派の宗派紛争の様相を強めている。
 懸念されるのは、シリアの混迷が深まることで、中東地域全体の不安定化が現実味を増してきていることだ。
 隣国レバノンで今週、アラウィ派とスンニ派の民兵の間で銃撃戦が発生し、死者が出た。シリア内戦の構図が波及したと言える。
 北隣のトルコは、シリア内でのクルド人の動向に神経をとがらせる。トルコ内のクルド独立運動を刺激しかねないからだ。
 国連統計で17万人を超えた大量の難民流出も、周辺諸国の重荷となっている。
 シリアを取り巻く国がそれぞれに火種を抱える。シリアが、保有しているとされる化学兵器をテロ組織などに拡散させれば、事態はさらに深刻化するだろう。
 これまで、アサド政権を一貫して支えてきたロシアの責任は重大だ。米欧と協力し、停戦の即時実施へ、シリア側に強い圧力をかけるべきである。

2012年8月22日水曜日

中国大使交代―民間起用の芽を摘むな

 丹羽宇一郎・駐中国大使を交代させ、後任に外務審議官をあてるなど、秋の外務省人事の骨格を野田内閣が固めた。
 伊藤忠商事の社長、会長として中国との間で培ってきた人脈と手腕を期待され、丹羽氏が民間から初の中国大使についたのはわずか2年前のことだ。
 今回の早すぎる交代が、民間からの大使起用の芽を摘むことになってはならない。
 丹羽氏の交代論が浮上した直接のきっかけは、東京都の尖閣諸島購入計画について、英紙のインタビューで「日中関係に極めて重大な危機を招く」と語ったことだった。
 日本固有の領土である尖閣購入と外交問題は関連しない。そんな日本政府としての公式な立場と相いれない発言であったことは間違いない。
 一方で、現実にはこの計画が日中双方の機微に触れることはごく普通の常識ではないか。
 民間出身の大使に期待されるのは、外務官僚とまったく同じ発言や発想ではないはずだ。
 むしろ、プロの外交官とはひと味違う、率直な発言や新鮮な発想、時には政府にも厳しい直言ではないか。
 残念なのは、民主党政権が丹羽氏をしっかりバックアップしてこなかったことだ。
 「民間出身の大使が定着していくかどうかの試金石だ」「人事で支える態勢をつくる」
 みずから丹羽氏を口説いた岡田克也外相はそう意気込んでいたが、3カ月後に党幹事長に転出してしまった。
 大使には最適の人材をあらゆる分野から広く起用する。3年以内に約2割を外部からの任用とし、外務官僚との健全な競争を促す――。
 外務省が大揺れに揺れた機密費詐取事件を受け、外相の私的懇談会が10年前にまとめた最終報告はそう求めていた。
 丹羽氏の起用もこの流れに沿ったものであり、その指摘の多くはいまも当を得ている。
 一連の人事でもうひとつの疑問は、駐米大使に外務事務次官が11年ぶりにつくことだ。
 かつては、次官経験者が駐米大使につく慣例があった。
 10年前の最終報告はそれをあらため、次官を「最終ポスト」とするよう求めた。
 外務官僚の最高責任者が次官なのか、駐米大使なのかがはっきりしない状態を変える必要があると考えたからだった。
 日本外交の現状は厳しい。改革を骨抜きにし、外務官僚にとっての「古き良き外務省」を復活させる人事が、肝心の外交力を弱めることを恐れる。

中間貯蔵施設―前に進むために必要だ

 福島県の復興に向け、原発事故による汚染土などを保管する中間貯蔵施設の具体的な候補地を、政府が示した。
 東京電力福島第一原発がある双葉、大熊両町と、第二原発がある楢葉町の3町で、計12カ所が候補になった。
 貯蔵施設にめどがつかねば、市町村ごとの仮置き場の確保が進まず、除染作業が遅れる。それは復興に影響する。
 避難生活が続く地元の人たちが、受け入れ要請に怒りや疑問を感じるのは当然だ。だれにとっても難しい選択になる。
 だが、前に進むにはどこかに造るしかないのも事実だ。政府と福島県と3町は、候補地の地質や放射線量などの調査に向け、協議を始めるべきだ。
 政府はまず、候補地をどんな基準で選んだか説明しなければならない。環境省は、谷や丘などの自然の地形をいかしつつ必要な面積を確保でき、汚染土を運搬しやすい主要道路に近いこと、などの条件をあげた。
 一方で、細野環境相は昨年、放射線量が高いため当分住めそうにない地域に貯蔵施設を造る考えを示し、「年間の線量が100ミリシーベルト以上」という目安も示した。
 候補地にはそうした地域もあるが、楢葉町のように線量が比較的低い地域もふくまれる。住民が納得できる説明が、次の意見を交わす基礎になる。
 復興への知恵も必要だ。
 細野氏は、汚染土から放射性物質をえり分けて量を減らす研究施設など、雇用を増やす案を話している。地元の人たちが待つのは具体的な政策だ。
 県内には、除染作業を進めながら仮置き場に苦労している市町村が少なくない。国が直接除染を行う11市町村でも、7月末には田村市で本格的な作業が始まった。中間貯蔵施設はますます必要になる。着工までの調整と調査、そして建設には時間がかかる。早く場所を確定させる必要がある。
 原発事故による家や土地への賠償を十分受けられるか、避難住民は不安だ。だから「賠償額がはっきりしてから中間貯蔵施設の受け入れについて考える」という声は無理もない。
 東京電力は7月に、土地や建物、家財道具などについて賠償基準を示した。不十分な点がないか検証しなければならない。
 「中間貯蔵と言いつつ、最終処分場になるのではないか」。地元の不安に対し、政府が30年以内にと約束した県外の最終処分場の見通しはまったくたっていない。責任を忘れず、福島県側との協議に臨んでほしい。

衆院選政権公約 実現可能な政策へ論議深めよ

 ◆ポピュリズムは排除すべきだ◆
 実現可能な公約でなければ、政治は前に進まない。破綻した民主党政権公約(マニフェスト)の苦い教訓である。
 「近いうち」に衆院解散・総選挙が行われると予想される中、与野党は選挙準備に力を入れ始めた。大きな課題は「ウソの代名詞」と揶揄(やゆ)されるほど民主党がその名を(おとし)めたマニフェストをどう作り直すかだ。
 次期衆院選では、消費税率引き上げ、環太平洋経済連携協定(TPP)参加問題、原子力・エネルギー政策などが争点になろう。
 ◆確たる財源を明示せよ◆
 選挙直前に急ごしらえした政策は有権者受けを狙って、大衆迎合主義(ポピュリズム)色の強い“バーゲンセール”となりがちである。各党とも今国会中から地に足のついた議論を重ね、現実的な政策を掲げてもらいたい。
 民主党の2009年衆院選マニフェストが抱える最大の欠陥は、消費税率引き上げに言及せず、確たる見通しもないのに16・8兆円もの財源を予算組み替えなどで捻出できると主張したことだ。
 いかにずさんな公約だったか、民主党は痛感しただろう。
 野田首相は8日の民主党両院議員総会で、次期衆院選マニフェストに言及し、「党内で大いに丁寧な議論をし、それを『見える化』する工夫が必要だ」と訴えた。
 もっともな主張だが、反省の弁でもある。多くの議員が公約作成に参画し、共通認識を持って選挙戦に臨むことは重要だ。
 政策をオープンに議論すれば、他党に手の内を明かすことになるとの懸念はあるだろう。だが、そうした経緯も含めて、有権者の判断材料になる。
 今国会で衆院解散がなければ、民主、自民両党は9月の党代表選と総裁選を、それぞれ公約の方向性を打ち出す場とすべきだ。
 政権公約とは何なのか、改めて考え直すことも必要ではないか。野党であれば、政権を担当するまで分からないこともあろう。経済、世界情勢の激変や大災害など予見できない事態も起こりうる。
 公約が現実にそぐわない、あるいは実現困難と判明した段階で、臨機応変に修正、撤回するのが、政権党の仕事である。
 たとえマニフェストに反していても、必要な政策、国益に資する政策を実現することは、むしろ望ましい。その際、有権者に対して、政策変更の理由をきちんと説明しなければならない。
 政治家にとって、公約順守が大事であることは言うまでもないことだ。だが、用をなさない公約を金科玉条のごとく守ると言い張るのは不誠実だ。「マニフェスト至上主義」に陥ってはならない。
 ◆参院選との関係明確に◆
 マニフェストは、「政党が実現に努力し、有権者はその達成度を次の選挙で評価する」というサイクルが基本だ。ただし、国政の場合には根本的な問題がある。
 第一に、参院選との関係だ。
 民主党は、09年衆院選マニフェストの見通しが甘かったことを認めて、10年の参院選公約では、その一部を修正した。消費税については「消費税を含む税制抜本改革に関する協議を超党派で開始する」と明記している。
 だが、その後、参院選公約は議論にならず、消費税の記載のない衆院選マニフェストを守るかどうかに焦点が当たっている。
 マニフェストと参院選公約はどういう関係にあるのか。参院選で敗北した時の公約の扱いも合わせて位置づけを明確にすべきだ。
 昨年夏の民主党代表選で、消費税率引き上げは焦点の一つだった。野田首相は、消費増税を明確にして勝利し、代表に就任した。これも党の大きな政策転換だ。
 国民が選挙で審判を下すのは、マニフェストの達成度だけではなく、こうした政策変更の是非も含む党の姿勢や実績だろう。
 ◆ねじれ国会が前提だ◆
 第二に、次期衆院選は、衆参ねじれ国会を前提とした戦いにならざるを得ないことである。
 参院では、民主、自民両党とも単独過半数を得ていない。どちらの党が勝っても、選挙後、政権を安定させるには政策の近い党と連立を組まねばなるまい。
 政策を実現するには、野党の協力も欠かせない。
 衆院選で自党の政策を主張するのは当然だが、連立やねじれの状況を考えれば期限などを具体的に約束するのは現実的ではない。
 次期衆院選の公約は、各党が大衆迎合に走らず、日本の将来に責任を持てるよう作成すべきだ。有権者も、公約には限界があることを十分理解する必要がある。

2012年8月21日火曜日

尖閣と竹島―政治が対立をあおるな

 中国でまた、反日デモが起きた。尖閣諸島に不法に上陸した香港の活動家を、日本側が逮捕したことが引き金になった。日本では不法上陸への反発が広がり、地方議員ら10人が政府の許可なく尖閣に上陸した。
 日韓が領有権を争う竹島では韓国が李明博(イ・ミョンバク)大統領の名を刻んだ石碑を建てた。大統領の上陸に続く、無分別な行動だ。
 感情をたぎらせ、ぶつけあう。隣国同士でこんな不毛なことをいつまで続けるのか。
 野田政権の基盤は弱い。秋に世代交代を控える中国の指導部は動きが取りにくい。年末に大統領選がある韓国では、李大統領の求心力低下が著しい。
 難しい時期だが、事態を収めるべき政治が対立をあおるような振る舞いは理解しがたい。本来の外交の場で引き取り、沈静化を図るべきだ。
 中国のデモは、尖閣沖での衝突事件の後に反日が吹き荒れた一昨年の再現のようだった。
 北京や上海では厳戒態勢が敷かれ、デモは散発的だった。だが、香港の隣の深セン(センは土へんに川)などでは参加者が暴れ、日本車や日本料理店を壊す騒ぎになった。
 日中の貿易総額が年間27兆円余りとなるなど、相互依存は強まるばかりなのに、きわめて残念だ。粗暴な行いが国際社会でのイメージ悪化にもつながることを中国は知るべきである。
 ただ、反日に過剰に反応するべきではない。
 デモは、貧富の格差や汚職の広がりなど、中国社会の矛盾への不満に突き動かされている面もある。中国政府は批判の矛先が自らに向かうことを何よりも警戒しており、これ以上の拡大は望んでいまい。
 中国のネット上では、「中国人の車を壊してどうする」などと、冷ややかな声も多い。
 一方、韓国に対しては、李大統領の天皇への謝罪要求発言もあり、日本政府は態度を硬化させている。国際司法裁判所に提訴する方針を発表したほか、安住淳財務相は日韓通貨スワップ(交換)の融通枠拡充取りやめを示唆している。
 日本の立場を表明することは大事だが、あたかも制裁のように関係のない問題を持ち出すのはいかがなものか。韓国経済の不安定化は、日本にとってもマイナスになりかねない。
 安住氏は、今月下旬の日韓財務対話への出席も取りやめた。だが、こういうときこそ、韓国としっかり話し合うべきだ。
 日中も、日韓も、前に進めていかなければならない関係だ。何が本当の国益なのか、冷静に考える必要がある。

国の出先廃止―首相は約束を守れ

 野田首相は、このまま忘れてしまおうというのか。
 政府の出先機関を「原則廃止」し、地方へ移管するための法案を今国会に提出するという約束のことだ。
 首相は社会保障と税の一体改革関連法を、執念で成立させた。ところが、出先改革については、熱意をなくしてしまったように見える。
 この改革には、出先の仕事を自治体に任せることで、住民や議会の監視のもと、より効率的に進めていく意義がある。首相には、初志を貫くよう重ねて求める。
 内閣府は6月、権限を奪われる省庁の激しい抵抗の中、法案化にこぎ着けた。ところが、こんどは前原政調会長も含め民主党から異論が噴き出し、了承される見通しが立たない。
 国の出先機関の仕事と権限を、受け入れる意欲のある地域に丸ごと移す。これが一昨年末の閣議決定の内容だ。
 対象となるのは、国土交通省の地方整備局、経済産業省の経済産業局、環境省の地方環境事務所。その仕事を関西広域連合などに移すため、政府と地方側が協議を進めてきた。
 内閣府がまとめた法案は、当初方針に比べれば物足りない。
 地方に移される仕事は一部にとどまり、政令によって政府が様々な形で関与できる余地も残した。権限はなるべく手元に残し、地方にも何かと口を出せるようにと、国交省などが巻き返した結果だ。
 政令次第でいっそう骨抜きになったり、国の関与がかえって強まったりする懸念もある。
 それでも反対という議員の言い分は、たとえばこうだ。
 地方整備局の仕事を地方に移すと、災害時に対応できるかどうか不安だ――。全国市長会も同じような懸念を示し、市町村の意見を反映させる仕組みを求めている。
 法案には、広域連合は災害時には国の協力要請に応じなければならないとある。党内にはなお、国の指揮監督権を認めるべきだとの声も残っている。
 東日本大震災の後、地方整備局が道路などの復旧に活躍したのは確かだ。しかし、各地の自治体もまた被災地に職員を派遣するなど、大きな力を発揮したことを忘れてはならない。
 仮に法案が提出されても、今国会での成立は困難だ。
 それでも、中央省庁が独占してきた仕事を地方に渡す法案が閣議決定されることは、これまでの分権改革の歩みを振り返っても、画期的であることは間違いない。

中国反日デモ 邦人の安全確保へ沈静化図れ

 香港の活動家による尖閣諸島への不法上陸事件を契機に、中国各地で反日デモが拡大している。中国政府は事態の沈静化を急ぐべきである。
 尖閣諸島に対する中国の領有権を主張する反日デモは19日、北京や上海、広州など約25か所で発生した。広東省深センなどでは、デモ隊が暴徒化して、日本料理店のガラスが壊される事態となった。
 大規模なデモは、中国で暮らす大勢の邦人を脅かした。デモを事実上黙認し、結果的に混乱を招いた中国政府の責任は重大だ。中国当局は邦人や日系企業の安全確保に万全を期してもらいたい。
 中国政府には、対日牽制(けんせい)は無論として、経済格差など国民の不満のガス抜きを図る思惑もあったのだろう。指導部交代が予定される今秋の共産党大会を控え、「反日カード」が権力闘争に使われた、との見方も出ている。
 中国の反日姿勢は、今後も変わらない公算が大きい。中国側の事情に基づくトラブルは絶えない、ということを日本政府は肝に銘じ対処していく必要があろう。
 中国政府は日本人10人による尖閣諸島・魚釣島上陸を批判した。だが、これはお門違いだ。佐々江賢一郎外務次官が、中国の程永華駐日大使からの抗議に「香港の活動家による上陸が背景にある」と反論したのは当然だ。
 日本政府がまず取り組むべき課題は、尖閣諸島の管理を淡々と強化することである。購入を計画する東京都は、上陸許可を政府に申請している。
 政府は、都と連携して、国有化を着実に進めることが肝要だ。
 無人島での海上保安官の犯罪検挙を認める海上保安庁法改正案とは別に、領土・領海を守る体制を整備することも急務である。
 長島昭久首相補佐官は、テレビ番組で「領域警備の体制を法制度も含めて見直す」と述べた。松原国家公安委員長は「領土主権を侵害する目的の不法入国は、通常の不法入国と区別し、重く罰すべきだ」とも指摘している。
 外部からの不法侵入など国家的な危機への備えはなお脆弱(ぜいじゃく)だ。
 1999年の北朝鮮工作船の領海侵犯事件以来、日本はこうした問題点は、幾度となく痛感してきたはずである。当時、読売新聞は「領域警備」を自衛隊の新たな任務とし、警戒監視に当たらせることを提言した。
 今回のような反日団体による不法上陸事件は、今後も続発しかねない。領域警備を強化する法制度も検討すべきだろう。

福島の除染 中間貯蔵施設の実現は急務だ

 政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故で発生した汚染土などを保管する中間貯蔵施設について、地元自治体に建設候補地を示した。
 施設が建設できないと除染は行き詰まり、復興も進まない。自治体の理解を得て、政府は、早期実現に全力を挙げねばならない。
 候補地とされたのは、福島県双葉、大熊、楢葉3町内の計12か所だ。いずれも、福島第一原発の近接地にある。
 政府は3町に1か所ずつ大型の中間貯蔵施設を設けるとした従来の案を見直し、地形や搬送する際の交通の便などを考慮して、候補地を分散させた。より現実的な案になったと言えるだろう。
 しかし、地元では、自宅の周辺に中間貯蔵施設ができた場合、帰還が難しくなるなどと反発する声が出ている。
 政府は今後、地元の同意を得たうえで、精密な地質調査などを実施し、設計・建設に着手する方針だ。汚染土の漏出などを確実に封じ込める施設の設置に向け、手続きを急ぐ必要がある。
 環境省によると、県内の除染作業で出る汚染土などの量は1500万~2800万立方メートル、最大で東京ドーム23杯分にのぼる。
 政府の計画では、これらの汚染土などを、いったん県内各地の仮置き場に集積する。放射線を遮るため覆土したうえで、3年程度保管する。その後、中間貯蔵施設に運び、30年以内に県外に新設される最終処分場に運び出す。
 ただし、来春までに中間貯蔵施設の建設場所を決めないと、仮置き場の維持すらできず、除染が滞りかねない。
 地元自治体は、政府に対し、被害賠償と復興計画も同時に議論すべきだと主張してきた。
 政府は7月、再生可能エネルギー関連産業の育成などを盛り込んだ「福島復興再生基本方針」をまとめた。地域住民が帰還まで暮らす「仮の町」を設ける方針も打ち出し、賠償基準も決めた。
 中間貯蔵施設の建設へ、環境は整ってきたのではないか。
 除染を進めていくうえでは、福島県の役割も重要である。政府と地元の調整に、もっと積極的に参画してもらいたい。
 地元自治体には、中間貯蔵施設がなし崩しに最終処分地になるとの懸念がくすぶっている。
 細野環境相は「30年以内の県外搬出」を実現すると述べている。まだ時間はある。最終処分地の議論は、状況の推移を見守ってから始めるのも一案だろう。

2012年8月20日月曜日

公共施設更新―「白書」作りで仕分けを

 財政難のなか、学校や病院、福祉センターなど、私たちの生活に密着した公共施設の維持・更新をどうするか。
 わが国の施設の多くは高度成長期に建てられ、更新時期を迎えているだけに、差し迫った課題である。
 ところが、国や多くの自治体は対策を先送りしているのが実情だ。市民と問題意識を共有しつつ、早く具体策を講じなければならない。
 そのために効果を発揮しそうなのが、様々な公共施設、いわゆる「ハコモノ」について、建て替え時期や費用の見通しなどを網羅した「白書」作りだ。
 神奈川県西部の盆地に広がる秦野(はだの)市は人口約17万人。「住民の高齢化と同様に、公共施設の老朽化は大変な問題」という危機感から、3年前に白書をまとめた。
 会計が独立している上下水道や、市単独では対策が立てにくい道路などを除く450余の施設を対象に、更新時期と必要な投資額、人件費を含む経費や利用率を調べた。
 財政見通しと合わせた分析結果は「すべてのハコモノを維持すると、市の借金である市債の残高が2倍に膨れる」だった。
 将来の世代に巨額のツケを回すわけにはいかない。白書に続いてまとめた再配置計画では、原則として新たなハコモノは造らず、既存の施設も人口の減少にあわせて40年間で3割減らす方針を打ち出した。
 住民の「総論賛成、各論反対」を説得し、施設を仕分けしていくには、幅広い分野を対象にし、施設ごとの経費や利用率までデータの公開を徹底することがカギとなる。白書作りが出発点とされるゆえんである。
 同様の白書を作る自治体は徐々に増えており、市区では50前後になるようだ。秦野市への視察や講師派遣の要請も多い。ノウハウを共有し、取り組みを各地に広げてほしい。
 こうした先行自治体と比べ、国の意識は遅れている。
 財政に余裕がないのに、昨年来、整備新幹線の新規着工や高速道路の工事凍結の解除など、大型事業への着手を相次いで打ち出している。
 このほどまとめた社会資本整備重点計画では、四つの重点目標の一つに「的確な維持管理・更新」を掲げたが、補修によってより長く使う「長寿命化」や計画的な更新などを列記したのにとどまった。「縮減」へと踏み込む必要はないのか。
 国も自治体と同様の白書を作るべきだ。そうすれば、答えはおのずと出るだろう。

認知症政策―入院より在宅めざせ

 認知症で精神科の病院に入院する人が増えている。
 1996年に約2万8千人だったのが、2008年には5万2千人とほぼ倍増した。
 症状が高じた末、困り果てた家族が精神科を頼る。引き受け手がなく入院を続けるケースも多い。
 こんな流れを変え、本人の意思を尊重して、できる限り住み慣れた環境で暮らせる社会にする――。厚生労働省がこんな新しい考え方を打ち出した。
 遅きに失した感はあるが、10人に1人が認知症になる時代である。穏やかに老後を暮らせる環境づくりにつなげてほしい。
 同省のプロジェクトチームがまとめた認知症への施策に関する報告書は、次のような率直な反省の言葉から始まる。
 「私たちは、認知症を何も分からなくなる病気と考え、徘徊(はいかい)や大声を出すなどの症状だけに目を向け、認知症の人を疎んじたり、拘束するなど、不当な扱いをしてきた」
 残念だが、こうした社会の偏見はまだまだ根強い。
 だが、認知症は何もわからなくなる病気ではない。初期から適切に対処すれば、自宅や施設で本人らしい暮らしを続けることもできる。
 入院に至るのは、200万人ともいわれる認知症の人のごく一部ではある。しかし、深刻な実態が少なくない。
 厚労省の調査によると、認知症の人の精神科病院での平均在院日数は、900日以上にも及んでいる。
 家族や施設などの引き取り手がいないという理由のほか、多くの病床を抱える精神科病院が認知症の人を積極的に受け入れている事情もあるようだ。
 いま必要なのは、早期に診断し、早い段階から生活の支援や往診を受けながら、住み慣れた自宅や施設で安心して暮らせる環境づくりを急ぐことだ。
 今後、厚労省は、看護師や保健師らが自宅を訪れて相談にのる「初期集中支援チーム」を全国約4200カ所に置く。専門医が自宅や施設へ往診する「身近型医療センター」も300カ所設けるという。
 モデルの一つは英国だ。09年に「国家認知症戦略」を策定して初期対応に力を入れた結果、質の高い在宅生活が続けられるようになってきている。
 人材育成など課題は多い。地域の特徴を生かした態勢づくりを支援することが大切だ。
 認知症には誰もがなる可能性があり、決して特別な病気ではない。どう向き合うか、まさに社会の知恵が問われている。

原発ゼロ発言 無責任な楽観論を振りまくな

 成長戦略として原子力発電所の輸出を推進する担当閣僚が自ら、早期の「原発ゼロ」を主張するのは、あまりに無責任と言えよう。
 枝野経済産業相が、日本メーカーによる原発建設が内定しているベトナムを訪れ、原発の新規導入に必要な制度作りなどに協力することで合意した。
 枝野氏は記者団に、日本は原子力の安全技術で国際貢献する責任がある、などと強調した。
 ところが、ベトナム訪問前には、日本の原発比率を「できるだけ早くゼロにした方がいいと思う」と発言していた。原発を他国には売るが、自国は早くゼロにするというのだろうか。これでは国際的な信用は得られまい。
 日本が脱原発を決めれば原子力の技術者は育たず、ベトナムなどへの安全面の貢献も続かない。枝野氏は矛盾だらけの「原発ゼロ発言」を撤回すべきである。
 政府は2030年の原発比率について「0%」「15%」「20~25%」という三つの選択肢を示している。このうち、「0%」が最も非現実的なのは明らかだ。
 政府の試算によると、国内総生産が約50兆円減少するなど、日本経済への打撃は甚大だ。
 民間の見通しも厳しい。経団連は、失業者が200万人も増えると警告している。電力多消費産業の鉄鋼業界は、電気料金が最大で約2倍に上がることから、「廃業勧告に等しい」と訴えた。
 野田首相は「0%」とした場合の課題やその克服策の検討を関係閣僚に指示している。原発ゼロを正当化する“理論武装”が狙いとすれば、看過できない。
 懸念されるのは、経済界の悲痛な声をよそに、原発ゼロでも何とかなるとする安易な考えが、政権内に出ていることである。
 特に、電力安定供給と産業振興に責任を負う枝野氏が、楽観論を振りまいているのは問題だ。
 枝野氏は「0%」を実現可能な選択肢としたうえで、「やり方を間違えなければ、むしろ経済にプラスだと思う」などと述べた。原発の代わりに再生可能エネルギーを導入すれば、内需拡大につながるはず、というのだ。
 現実はそれほど甘くはない。再生エネで先行したドイツでは電気料金の上昇で家計負担が急増し、太陽光パネルのメーカーが安い中国製に押されて倒産するなど、悪影響が顕在化している。
 国の浮沈にかかわるエネルギー戦略を、不確実な期待を根拠に決めるのは、極めて危険である。

穀物価格高騰 食料危機の再燃は防ぎたい

 トウモロコシなど穀物の価格が高騰し、世界各地で食料インフレへの懸念が強まっている。
 食料価格の上昇は世界経済の足かせとなるだけでなく、新興国の政情不安や飢餓人口の増大など国際社会にマイナスの影響を与える。
 2008年の食料危機では、生産国の輸出制限などに反発し、各地で暴動が広がった。危機を再燃させないよう、日本など各国は警戒を怠ってはならない。
 シカゴ先物相場では7月以降、トウモロコシや大豆の取引価格が相次いで史上最高値を更新している。国連食糧農業機関(FAO)が発表する食料価格の世界的な動向を示す指数は今月、2年ぶりに急上昇した。
 高騰の要因は、記録的な熱波と少雨により、米国で半世紀ぶりとなる深刻な干ばつが発生したことだ。被害は国土の6割に及び、世界生産の4割を占めるトウモロコシ、大豆の生産量が大幅に落ち込むと予想されている。
 ロシア、インド、中国なども天候不順に見舞われた。小麦の主産地であるロシアでは生産が2割程度減少する見通しだ。
 先進国の金融緩和によるカネ余りで、投機資金が穀物相場に流入し、価格上昇に拍車をかけていることも気がかりである。
 穀物の大半を米国からの輸入に頼っている日本の食卓にも、影響が出始めている。
 食用油メーカーは値上げを打ち出した。穀物高騰が続けば、豆腐やみそ、しょうゆ、マヨネーズなど、多くの日常食品の価格も上昇する可能性がある。
 畜産飼料に多く使われるトウモロコシの価格高騰は、食肉価格を押し上げ、卵や乳製品の値上がりにつながりかねない。
 日本は、官民が連携して穀物の調達先を多様化するなど、影響を最小限に食い止める方策を検討する必要がある。
 国際的な対応策も急務だ。
 主要20か国・地域(G20)は、主だった穀物の生産や在庫、市況などに関する情報を共有する新たな組織を発足させた。G20の連携を強化し、価格安定や市場の不安解消につなげてもらいたい。
 米国は、トウモロコシを原料とするバイオ燃料の使用義務を一時的に停止し、食料や飼料に回すことを検討すべきではないか。
 新興国で食肉消費が増え、飼料用を含む穀物需要は飛躍的に伸びている。各国は、生産性を向上させる技術革新や農業投資の促進などの課題にも取り組むべきだ。

2012年8月19日日曜日

北朝鮮の歴史といま 姜尚中さんが選ぶ本

■しぶとく存在し続ける謎

 北朝鮮の独裁者の突然の死去は、世界に大きな衝撃を与えた。ただ、今のところ、権力の継承は淡々と進み、目立った異変がみられるわけではない。それにしても、蔑視と嘲笑の的になっている破綻(はたん)国家が、なぜこれほどまでにしぶとく存続しているのか。この謎を解くには、北朝鮮という国家の生い立ちをその歴史的な脈絡の中で考えてみる必要がある。
 この立場から、北朝鮮建国の神話を旧ソ連の公開資料などを駆使しながら明らかにしたのが、和田春樹『金日成と満州抗日戦争』(平凡社・品切れ)である。金日成の国家は、「偉大なる首領」がかつて朝鮮人民革命軍を組織して戦ったという捏造(ねつぞう)された「事実」(=神話)の中から誕生した。この点を明らかにした和田は、さらに『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』(岩波書店・品切れ)において北朝鮮という国家体制を理解するカギとして「遊撃隊国家」というモデルを使い分析を深めた。

■神話と個人崇拝
 それは、60年代のはじめに確立された旧ソビエト型の国家社会主義体制の上に、国際緊張の中で67年から第二次的に形成された国家体制を指している。これ以後、首領を指導者と仰ぐ唯一思想体系と「チュチェ(主体)思想」で武装された「ウリ(われわれ)式」の社会主義国家が誕生することになった。
 金正日は、そうした遊撃隊国家の建物の上に「社会的政治的生命体」という粉飾を施し、また金正日が白頭山密営で誕生したという神話を捏造することで個人崇拝を推し進めていくことになった。
 それでは、金正日とはいったいどんな人物だったのか。北朝鮮に何度も足を運び、また膨大な数の亡命者や脱北者へのインタビューを試み、それらの生きた証言を建国以来の歴史の中に位置づけたジャーナリスト、ブラッドレー・マーティンの『北朝鮮「偉大な愛」の幻』は、金正日の実像を生き生きと伝えている。金正日は、無神経で残忍な暴君であるとともに、市場経済と共存するタイの王制に関心を寄せる改革者という両面性をそなえていた。しかし、結局、彼は慎重な日和見主義の域を出ることが出来ず、瀬戸際外交の果てに、軍を中心とする「先軍政治」へと舵(かじ)を切ることになる。

■朝鮮戦争の記憶
 それでは、なぜ、金正日は、核や弾道ミサイルなどの大量破壊兵器の放棄を決断できなかったのか。マーティンによれば、そこに立ちはだかっていたのは、信頼と検証の問題だった。北朝鮮をそこまで不信の塊にしたもの、それは、朝鮮戦争のトラウマだったのである。ナパーム弾をはじめとして60万トンもの爆弾の洗礼を受けた北朝鮮に刻みつけられた戦禍の記憶は、閉ざされた国家を準臨戦態勢へと押しやっていった。ブルース・カミングス『北朝鮮とアメリカ 確執の半世紀』は、そうした事情をアメリカの対北朝鮮観にまで踏み込んで明らかにした好著である。
 最後に北朝鮮を知る上で触れておかなければならないのは、在日朝鮮人の「帰国事業」である。テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダス』は、海峡を越えた北朝鮮への大規模な「民族移動」が、国際赤十字社を巻き込んだ日本と北朝鮮、さらにアメリカや旧ソ連、中国などが絡んだ北東アジアのパワー・ポリティクスの中で進められていった経緯を見事に明らかにしている。ここにあげた著書に共通しているのは、北朝鮮への「人間的な」関心に貫かれていることである。

 ◇カン・サンジュン 東京大学教授(政治思想史) 50年生まれ。本紙書評委員。『あなたは誰? 私はここにいる』など。

若者論をよむ 中西新太郎さんが選ぶ本

■ぎりぎりの状態が「普通」に

 若者の苦境に関心が寄せられ始めたこの数年間に、若者論のトーンは変わりつつある。バブル時代と同じには生きられない若者たちの現実が、学問的な検討の対象となるだけでなく、フィクション作品にも鮮烈に映し出されるようになった(津村記久子の近作『ワーカーズ・ダイジェスト』等々)。豊かさに甘える若者という定型のイメージはもはや過去の遺物といえる。
 とはいえ今度は、「きびしい現実を知れ、努力を惜しむな」という類の若者論が出回り始めた。努力が足りないと暗に論難しているのだから、新バージョンの若者バッシングである。
 「努力不足」「社会性不足」……と、若者の力不足をあげつらう議論の錯誤は、乾彰夫編『18歳の今を生きぬく』で丁寧に追跡された若者たちの人生行路をみれば明らかだ。乾らの調査に示された、普通の若者が何とか生きてゆくすがたと、鈴木大介のルポ『家のない少女たち』(宝島SUGOI文庫・480円)が伝える特異な体験とは、実は紙一重のところにある。仕事も暮らしも日々ぎりぎりの状態にあるのが若年層の「普通」なのであり、そこを見ずに力不足を嘆く方がおかしい。

■友人関係の葛藤
 若者の内面に踏みこむ論評でも、「ぎりぎりの状態」への注目が集まる。コミュニケーション場面ではたらく圧力の性質を巧みに説き明かした土井隆義『友だち地獄』は、「優しい関係の繊細なキツサ」を、地獄という強い比喩を用いて指摘する。友人関係のこの葛藤は、若者の自己語りといえるライトノベルでも頻出するモチーフであり、岩宮恵子『フツーの子の思春期』(岩波書店・1785円)が心理療法の現場から伝える像にも通底する。友人関係の希薄化という通念には多くの反証(浅野智彦編『検証・若者の変貌』など)が挙げられており、むしろ状況や趣味に応じて多様な友人関係をとり結ぶ「つきあい上手」といった方が実像に近い。にもかかわらずその関係のなかに深い葛藤、緊張が伏在しているというのが土井の主張である。引きこもりやリストカットなど、個別現象の分析ともフィットする知見であろう。
 若者の現実的窮迫も意識変容も、おそらくは、90年代末からの日本社会の大変動とかかわっている。この変動を念頭におけば、若者論が様変わりするのも当然というべきだろう。では、若者へ向かうまなざしはどこからどこへ変化してゆくのか。

■若者像の系譜
 この問いに答えるには、若者像の歴史分析が必須だが、青少年史、若者論史の包括的検討はまだない。文化分野にかぎられるが、難波功士『族の系譜学』が、太陽族から暴走族、オタク、コギャルにいたる文化表象を詳細に跡づけ役に立つ。個々の論点に異論がありうるとしても、若者文化像をたどるさいの必読書である。難波による「族」の分析に付加されるべき点を一つ挙げるなら、「メンヘル系」「同人誌系」といった独特の排除作用をともなう「系」の検討ではないか。
 若者の生きる現実を彼ら自身が開示し解読する試みぬきに若者論の革新は果たしえない。橋口昌治『若者の労働運動』(生活書院・2625円)のような若い世代による触発的議論が広がることを期待したい。
 最後に、若者論が陥りがちな安易な世代論への批判として、湯浅誠ほか編著『若者と貧困』(明石書店・2310円)に収められた仁平典宏の要を得た論考(「世代論を編み直すために」)があることを付記しておく。

 ◇なかにし・しんたろう 48年生まれ。『シャカイ系の想像力』(岩波書店)など。

オネエ文化 伏見憲明さんが選ぶ本

■差別ゆえの奔放と強さ

 いまや、オネエ系タレントは百花繚乱(ひゃっかりょうらん)、メディアに欠かせない存在になっている。彼らはどうして人気を博しているのか?
 マツコ・デラックスとの共著『うさぎとマツコの往復書簡』の中で、作家の中村うさぎは、差別があるからこそ、オネエたちはそれを逆手に取り、「治外法権的特権」を行使できる、と分析する。たしかに、「まっとう」とは認められないがゆえに、オネエたちには自由気ままな発言が許されているふしがある。そして、その奔放さは、今の息苦しい社会の「ガス抜き」として機能しているように見える。
 とはいえ、差別構造に乗っている点において、オネエたちの戦略は危うい面がある。「しょせんオカマだから!」と言う彼らの常套句(じょうとうく)は、「差別を甘受する」というメタメッセージもそこに含んでいるからだ。しかし、そうした自虐は差別を固定化する方向ばかりではなく、それを解消する可能性も内包している。

■「日本の母」に
 オネエ系タレントの先人であるピーコは、70年代半ばのデビュー当時、世間からイロモノあつかいをされたという。しかし、毒舌の中にも真理を突いた発言は徐々に大きな支持を得るようになり、90年代の後半には、糸井重里から「日本のおかあさん」と認定されるまでになった(『ピーコ伝』)。
 かつてそれを象徴した山岡久乃や京塚昌子のような女優がテレビから消えていくのと対照的に、オネエたちの露出が増えていったことを考えると、彼らは、性的であり続けようとする昨今の女たちの替わりに、母性を体現しているのかもしれない。
 それにしても、どうして日本の社会の中で、同性愛者や女装者は欧米ほどには露骨な反発もなく受容されてきたのか。性解放の先進国と目される米国では、97年の時点でも、人気コメディエンヌ、エレン・デジェネレスがTVネットワークでレズビアンであると告白したことが騒ぎとなった。一方、日本では50年代に、人気歌手であった丸山(美輪)明宏がゲイを自認していた。
 芸能界ばかりでなく、文壇においても似たような謎がある。70年代、米国でゲイ文学が興隆する遥(はる)か以前、49年に、三島由紀夫は、『仮面の告白』を発表している。同性愛を主題にしたその小説は、まるでオネエそのものであるかのような華美で、大仰で、自嘲的な文体を持っていた。それが文壇のど真ん中に登場し、排斥されるどころか出世作にさえなったのだ。

■享楽への予感
 筆者は当時の書評を渉猟したことがあるが、そこにはキリスト教圏に根深い、同性愛を表現することを嫌悪し非難するような論調はあまりなかった。作者本人の性向についても、無意識に避けられているようだった。後年、三島自身、「モラルに反抗して書いたつもりだのに、ちっとも道徳的に反発されない」と雑誌に語っているが、そもそもこの国の性愛には、『源氏物語』をあげるまでもなく、倫理には回収されえない土壌があった。
 『仮面の告白』の主人公は、同性愛に苦悩するも、透徹した眼差(まなざ)しで自分の性向を暴いていく。女性と付き合いかけるなど曲折はあったが、最後には己の拭えない欲望から目を離せなくなった。それはまだ自己肯定と言うには頼りない心持ちであるが、その、自分自身を手放さない欲望への固執は、現在のオネエたちにも通じる強さと、享楽主義への予感が胚胎(はいたい)していた。

 ◇ふしみ・のりあき 作家 63年生まれ。『ゲイという[経験]』『団地の女学生』など。

吉本隆明の経済学 中沢新一さんが選ぶ本

■「価値一般」を串刺しにする思考

 吉本さんには、まとまった経済学の著作といったものはない。しかし経済の問題は、文学や政治の問題と並んで、吉本さんの重大な関心領域であり続けた。スミスやマルクスの経済学を学ぶことから出発しながら、現代の新しい現実と格闘しているうちに、吉本さんは独力でひとつの体系をつくってしまった。
 その体系はいわばヴァーチャルなもので、目に見えるかたちでは、折にふれての思考としてしか表現されなかった。それでも、それらをつなぎあわせてみると、とても未来的な可能性を秘めている、ひとつの経済学の一貫した考え方が、浮かび上がってくる。
 初期の『言語にとって美とはなにか』の中で、吉本さんはマルクスが経済の研究から着想した「価値」の概念を、文学の領域に創造的に転用することで、言語学や文学理論のはるか先を行く視点を、切り開いてみせた。増殖するというのが、価値の重要な特徴である。じっさい私たちの生きている経済では、商品の交換がおこなわれ、価値が増殖していっている。
 ことばの世界の中で、それとよく似たことをしているのが文学であるというのが、吉本さんの考えだ。「これは上着です」と言ったとき、ことばはなにかを「指し示す」働きをしているが、価値の増殖はおこっていない。ところが「これは天使の上着(のよう)です」というときには、価値の増殖がおこって、文学表現の領域に入り込むことになる。

■ことばとの関連
 経済の世界でおこっていることと、ことばの世界でおこっていることの間には、密接な関連がある。そのため資本主義の本質を研究することで、ことばだけではなく芸術や大衆文化のような、じつに広大な領域にまたがるさまざまな表現の本質を、深く理解する鍵が手に入るはずである。
 吉本さんはそうやって、あらゆる形態の「価値一般」を串刺しにできる思考を、生み出そうと努力した。そこからじつにユニークな「経済学」が成長した。この経済学がもっとも威力を発揮したのは、現代資本主義のウェイトが「生産」から「消費」へ転換しだした時期であった。そのとき吉本さんは、同時代の世界中のどんな思想家をも凌駕(りょうが)する、斬新で大胆な思考を展開してみせた。『ハイ・イメージ論』の連作に結晶する、驚くべき仕事がそれである。
 農業の問題も、吉本さんにとっての大きなテーマだった。農業では貨幣が介在しないところで、自然の循環をもとにした生産がおこなわれている。そのために農業地帯はおしなべて貧困で、農業人口もどんどん減少している。しかし人間は農業が生み出す食料がなければ生きて行けない。この矛盾をどうするか。

■交換から贈与へ
 交換経済ではなく、贈与経済だけがその矛盾を乗り越える可能性を持つ、と吉本さんは考えた。農業者から食料を得るために、都市生活者は等価交換によらないで積極的に自分の富をあげてしまう、贈与のやり方を採用する必要がある。そうなると経済世界は、根底から変化していくことになるだろう。未来の経済学は、このような新しい贈与論を組み込んだものにならなければならない(このあたりの議論は『マルクス——読みかえの方法』などに出てくる)。
 「吉本隆明の経済学」は実在する。それはヴァーチャルな空間の中に隠されていて、いまだその全貌(ぜんぼう)をしめしていない。しかしそこには未来への宝が埋蔵されている。合掌。

 ◇なかざわ・しんいち 人類学者 50年生まれ。『日本の大転換』など。

震災1年 杉田敦さんが選ぶ本

■戦後政治のシステム直視を
 復旧は緒に就いたばかりで、原発事故への対処も綱渡りである。それなのに、すでに忘却が進みつつあることをどうとらえるか。深刻な事態を見つめながら、一歩ずつ日常性を回復するのとはおよそ違う。怖いものは見なければなくなるかのような呪術的な心性。最悪の事態を想定することを忌み、一般向けに「顕教」としてふりまいたはずの安全神話に自らとらわれていった「原子力ムラ」の姿は、リアリズムを欠く日本社会の縮図ではないか。
 辺見庸は『瓦礫(がれき)の中から言葉を』で、今度の災害を論じる言葉の貧困を取り上げ、原爆や関東大震災と比べても、その貧しさは際だつという。そして、メディアが紋切り型な表現を垂れ流した背景に、「心の戒厳令」を見る。
 被災地の外に悲惨さが伝わらないのは、報道から死の影が排除されたことも大きい。石井光太のルポ『遺体』(新潮社・1575円)は、いきなり無数の遺体を前にし、慣れない処理の作業に追われた公務員や歯科医らの経験を描く。悲しみにくれるいとまもなく苦闘した現場の声に耳を傾けなければならない。
 その意味で、東北の地方紙が自ら被災しつつ新聞を出し続けた記録(『河北新報のいちばん長い日』文芸春秋・1400円)は貴重だ。隣人たちの顔を思い浮かべて悩み、見出しの「死者」を「犠牲」と変えた記者。そこにはたらいていたのは「心の戒厳令」とは別の何かである。

■合理性とは何か
 事故原因調査も終わらない中、原発再稼働に向けた動きが急だ。事故の確率は低いとの論調も根強いが、確率論は何度も反復する現象にしかあてはまらず、まれでも巨大な被害を拒否するのは合理的な判断だ、と加藤尚武は指摘する(『災害論』)。
 原発は単なる電源ではなく、戦後政治のエネルギー源であり続けてきた。「原子力の平和利用」は冷戦下のアメリカの思惑から生まれ、「潜在的な抑止力」を求める日本の勢力によって推進されてきた(山本義隆『福島の原発事故をめぐって』みすず書房・1050円)。そして、それを支えたのが、巨大リスクを特定の地域や人びとに押しつける「犠牲のシステム」(高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』)であり、地域を交付金漬けにする手法は、「土建国家」と連動していた。「政治主導」を掲げた政権交代を経ても、こうしたシステムの問い直しが進まなかったこと(山口二郎『政権交代とは何だったのか』岩波新書・840円)を直視しなければならない。
 脱原発世論などに見られる安全志向について、それが結果的に、生命・生活を管理する権力への従属を招くことを市田良彦らは懸念するが(市田ほか『脱原発「異論」』作品社・1890円)、リスクを個人で背負いきれない以上、そうした権力をいちがいに否定することもできないだろう。

■あらゆる支援を
 今も30万人以上の人びとが避難・転居を強いられ、避難したくてもできない多数の人びともいる。この「難民」状況の解決のため、そして次世代への責任として、あらゆる支援が求められる。「人が住んでいるところを危険というな」という議論があるが、イラク派遣問題で非戦闘地域の定義を問われ、「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」とした小泉純一郎・元首相の詭弁(きべん)に似ている。リスクは、見なければなくなるわけではない。それが私たちの現実である。

 ◇すぎた・あつし 法政大学教授(政治理論) 59年生まれ。著書『政治への想像力』、編著『「国家」は、いま』、共著『3・11に問われて』など。

オキュパイとは何か 池上善彦さんが選ぶ本

■私たちが知らなかった民衆史
 「私たちの民主主義は名ばかりのものにすぎません。私たちが投票するですって。それはどういうことなのでしょうか」「似たり寄ったりの二人からの選択なのです」。こう語るのはあのヘレン・ケラーだ。社会主義者であった彼女はこの言葉通り、直接行動に生涯邁進(まいしん)した。これが私たちの知らなかったアメリカの民衆史なのである。
 昨年9月から始まったアメリカのオキュパイ運動は、決して突然始まったわけではない。その背後に無数の民衆の多様な試みがあったのである。それを教えてくれるのがハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』だ。この本の原著は1980年に出版されたものであるが、99%の人々が共通性を自覚し始めるとき、直接行動による大きな変革が始まるであろうと、その末尾には書かれている。
 「我々は99%である」という胸に迫るスローガンと、オキュパイ(占拠)という魅力的な実践を象徴とするアメリカのオキュパイ運動は、極端な格差社会にあるアメリカというスーパーパワーの国家の中心部から、これ以上はもはや耐えられないというぎりぎりのところから立ち上がってきた、目を見張る運動である。

■先行したアラブ
 ウォールストリートというまさに心臓部から始まったこの運動は、多様な課題を抱えながら瞬く間に全米に広がり今では二千カ所以上で繰り広げられるに至っている。その直接行動の基調となっているのは、アメリカの伝統に根ざしたアナーキズムだ。それを新たに現代的に語り直したものがデヴィッド・グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』だ。
 オキュパイ運動に先行し、これに多大なインスピレーションを与えたのが昨年の1月から始まったアラブの春である。この運動の帰趨(きすう)をめぐって、スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクとイランの思想家ハミッド・ダバシの小さな論争があった。アラブの春の終焉(しゅうえん)を断言するジジェクに対して、ダバシはここに至るアラブ民衆の歴史を見よと批判する。イクバール・アフマドの『帝国との対決』(太田出版・2730円)は、ダバシの言うアラブ民衆の抵抗の歴史を明晰(めいせき)に教えてくれる刺激に満ちた本である。
 またパキスタンの思想家タリク・アリはアラブの春が始まった直後、これはヨーロッパの1848年の市民革命がアラブに及んだものであると喝破した。ウィーン体制を打破したこの革命は市民革命であると同時に貧民の革命でもあった。良知力(らちちから)の『向う岸からの世界史』(ちくま学芸文庫・1260円)はその詳細を生き生きと記述している。19世紀の中盤に端を発した民衆革命は二百年近い時を経て、アラブに至り、ブーメランのようにヨーロッパ、そしてアメリカに回帰した。その大きな流れの中に日本もある。

■日本の地下水脈
 原発事故への怒りと生存のぎりぎりのところから発生し、ほぼ毎週全国のどこかで行われているデモによって日本社会は漸次変わりつつある。この流れは色川大吉の名著『明治精神史』によって、それが明治維新以来の地下水脈であったことに気づくことになる。
 そして、デモばかりではなく、無数の市民グループによる放射能の計測運動という特異な事故による特異な形態の運動を我々は生み出した。ある市民計測グループの言葉にこうある。「自分自身で考え、自分自身で勉強し、自分自身で測り、自分自身で自分を守る」

 ◇いけがみ・よしひこ 編集者 56年生まれ。「現代思想」前編集長。『現代思想の20年』(以文社)

大統領選のロシア 下斗米伸夫さんが選ぶ本

■民族と宗教の難問に揺れる

 ポスト・プーチンはプーチンになりそうだ。来週のロシア大統領選挙のことである。
 ロシアで政治家であることは容易ではない。とくに、その選択が多くの国民の生死にまで直結してきた国では。この地の権力は百年に二度も激震に見舞われ、その影響は指導者や国民だけでなく、全世界にも及んだ。ロシア革命とソ連崩壊である。
 帝政ロシアの最後の皇帝ニコライ2世は、ボリシェビキ革命のさなかに落命した。無神論者の指導者レーニンの遺体は、デイヴィッド・レムニックの『レーニンの墓』ではないが、ソ連が崩壊した今でも崇拝の対象だ。いな死後も「生きて」、北朝鮮の家族愛に満ちた独裁者一家廟(びょう)の模範となっている。
 その弟子スターリンの墓はフルシチョフによって暴かれたが、後者の改革は挫折し、次の18年の長きにわたったブレジネフ時代は停滞の代名詞だった。ゴルバチョフがはじめた改革は国家崩壊という意図せざる結果となり、新しい国家を造るはずのエリツィンは、野放図な自由化と国有資産の大安売りで腐敗と格差を生んだ。
 その意味ではプーチンになって初めて制度が機能し、石油価格の高騰と相まって安定化をもたらした(武田善憲『ロシアの論理』中公新書・777円)。だが、昨年12月の下院選の不正疑惑をめぐって起きた民主化運動の前に、指導力の陰りも見える。この逆説的事態を読み解くには、プーチン政治の原点に帰る必要がある。

■民衆が求める幻
 プーチンは最初の本『プーチン、自らを語る』の冒頭で、平凡な出だが、祖父はレーニン家の別荘の料理人だったことをさりげなく誇示している。スターリン時代末期に生まれたが、無神論の共産党員だった父に隠れ、母が洗礼を受けさせたとも語っている。ソ連期におけるロシア文化の伝承の経路を物語って示唆的だ。
 『ロシア文化の方舟』は、若手ロシア研究者が政治文化論的角度からソ連崩壊後の20年を扱って興味深い。ロシアでは権力が所有のあり方を決めた。政治が変わると利益の配分も異なる。富の偏在が腐敗や民衆の不満と民主化、そして革命まで生む。このたびに民衆は「真の指導者」の幻影を求め、自然災害のような反乱を起こしては権力を襲う(三浦清美「プーチン政権の文化史的考察」)。何が正しい政治なのか。全権をもつはずの権力者も歴史の裁きの前には無力だ。

■堅気の流れ健在
 塚田力「古儀式派の復活」は、政治と宗教の関係、とくに異端的宗教集団の政治史とのかかわりに関心を示す。ロシア革命前、レーニンに資金や晩年の別荘まで提供したのは、ロシアのプロテスタントというべき古儀式派の大富豪モロゾフであった。復活を信じたこの派は死体保存の技術をもっていた。祖父がこの別荘で働いたというプーチンの回想は、彼自身その流れを汲(く)んでいることを示唆している。謹厳と禁欲、いわばロシア流「堅気」の流れは健在だ。
 現代ロシアは民族と宗教という難問に揺れる。カフカスなどの民族を排斥し、「ロシア人のロシア」を呼号する民族主義が生じる。それは、石油資源で潤った世界屈指の巨大経済のあり方を左右する。「正しい(プラウダ)」政治を求めるという民衆の願いは幾度も裏切られてきた。プーチン自身が変わらなければ、歴史の一コマで終わりかねない。

 ◇しもとまい・のぶお 法政大学教授(ロシア政治、比較政治) 1948年生まれ。著書に『ロシア現代政治』『図説ソ連の歴史』『日本冷戦史』『アジア冷戦史』など。

立川談志を読む 高田文夫さんが選ぶ本

■落語家は書かなきゃ駄ァ目

 下から読んでも「談志が死んだ」という頓知のきいた見出しがスポーツ紙に躍った日から、本屋やCDショップには談志関連の本・CD・DVDが溢(あふ)れた。
 希代の落語の名手でありながら、その己の人生すら楽しませるエンターテイナーで、大衆芸能の造詣(ぞうけい)の深さでは右に出る者も居ない評論家で作家でもあった立川談志。20代後半にはすでにあの『現代落語論』でベストセラーを出している。今読み返すと一寸(ちょっと)恥ずかしい程若くて青い談志節ではあるが、この名著をスタートにその時その時感じたものを本にしていった。
 近頃、談志特集も多く、名著としてこの『現代落語論』、家元が愛しぬいた大衆芸能の百人に山藤章二画伯がイラストを描いた『談志百選』(講談社)、そして『人生、成り行き 談志一代記』(聞き手・吉川潮、新潮文庫・460円)が挙げられるが、私も確かにそう思う。
 しかし名著ばかりが談志ではない。迷作に怪著もいっぱい。今では入手困難かもしれないが、私の本棚の隅にそっとひそんでいる。そこに陽(ひ)を当てるのも立川流の本格派の弟子ではない作家兼噺家(はなしか)の私の役目。世間に知られたくないような著作を、あえてちゃんとしたここ朝日新聞に書くというのも“業の肯定”。

■芸能から食まで
 文章を書くということは言葉を選ぶセンスなのだと常々言っていた家元。だから落語家はものを書かなきゃ駄ァ目と酔って言っていたっけ。それにしてもその趣味・嗜好(しこう)の広さと筆の勢いで出した本の幅広さ。家元は口述筆記を嫌いすべて自分のペンで一字一字書いていた。それゆえ好・不調もあってバラエティーに楽しめる。すべて完璧なんて有り得ない、芸と同じだ。
 若き日に出した『あらイヤーンないと』、こんな本知っている奴ァ居ない。少し毒を盛りつつ童心に返って『眠れなくなるお伽咄(とぎばなし)』(DHC)。ズバリ『童謡咄』(くもん出版)というのも書いている。三橋美智也をこよなく愛した家元『談志絶唱 昭和の歌謡曲(うた)』。人生の師とも言うべき紀伊国屋書店社長を愛(いと)しく描いた小説のような『酔人・田辺茂一伝』(講談社)。これは良かった。『談志受け咄』(三一書房・1785円)では小説仕立てで親友のヤクザ、ウエスタンのジミー時田、あの毒蝮(どくまむし)三太夫の事を書いている。なにしろ人間好きなのだ。
 映画通である面目躍如は『談志映画噺』(朝日新書・798円)。贅沢(ぜいたく)してると今にバチが当たるぞと食文化論を展開した『食い物を粗末にするな』(講談社+α新書)。芸能から食までその筆は貪欲(どんよく)である。

■知らぬ事は無い
 “古今東西・森羅万象”知らない事は無いと私に豪語していた家元。全14巻にも及ぶ『立川談志遺言大全集』(講談社)では最後に自分でこう書いていた。「俺が死んだ。“俺”とは、この俺様、落語立川流家元立川談志のことで、死因は『ふとした病』である。『立川談志は天に召された』。これほどの損失はいまだかつて日本にはあるまいに。ミッドウェー海戦の大敗より、北方領土を占領(と)られたより、江戸城明け渡しより、古今東西の誰の死よりも痛恨であった。森の石松の死も無念であったが、それ以上であろう」。すでに書いていた。やられた。このユーモアこそが立川談志なのである。
 (価格がないものは品切れ)

 ◇たかだ・ふみお 1948年生まれ。著書『毎日が大衆芸能』、編著『江戸前で笑いたい』など。編集長をつとめる「落語ファン倶楽部」次号は談志特集。

花森安治を読む 津野海太郎さんが選ぶ本

■日常茶飯のコトバで考える

 昭和の日本を代表する編集者の名を一人だけあげよ。もしそう問われたら、私もそうだが、かなり多くの人が「暮(くら)しの手帖」の花森安治と答えるのではないか。
 誌面のレイアウトやイラストから手描きの文字を大胆に駆使した新聞広告まで、なんでも一人でこなしてしまう万能の編集技術者にして、書物にたよらず、どんな問題についても日常茶飯のコトバで考えつづけた暮しの思想家。さらには、スカートにチリチリ・パーマの女装の怪漢として、荒々しい戦後ジャーナリズムの世界を大いに賑(にぎ)わせたりもした。
 ——そんな人物が書いた本なら、ぜひ読んでみたい。
 当然、そう思う方も多いだろう。ところが残念なことに、この人には著書のかずが極端に少ないのだ。古い図書館に行けば、戦後まもない頃にでた軽めの随想集が3点ほど見つかるかもしれない。でもそれをのぞくと、あとは、みずから設立した暮しの手帖社から1971年に刊行した『一戔(いっせん)五厘の旗』という本が1冊あるだけ。そんな変則的な状態がつい最近までつづいていた。
 その状態が昨2011年にようやく変わる。なによりも、生誕100年を期して、LLPブックエンドという小さな出版社から『花森安治戯文集』全3巻が刊行されたせいが大きい。

■「戦いたくない」
 この戯文集は、復刻した前記3冊の随想集に、あらたに発掘された大量のエッセイや談話記録を組み合わせてつくられている。『一戔五厘の旗』は「暮しの手帖」にのせた文章を花森編集長が自選したものだったが、今回は同誌以外の場所に発表された文章の集成だから、両者を合わせて、かれの文業のほぼすべてが容易に通覧できるようになったことになる。
 ははァ、花森さん、こんな文章も書いていたのか、という発見がいろいろある。1972年の「文芸春秋」にのったエッセイ「君もおまえも聞いてくれ」(第3巻所収)もそう。
 ここには、私はもう戦いたくない、とはげしく主張する晩年の花森がいる。「国をまもれ」という押しつけも、火炎瓶と爆弾の革命もごめん。どうしても戦いたいのなら、壊した自然をもとどおりにし、われわれの体内に蓄積されてゆく放射能を除去するために戦え——。

■「手の人」だった
 ご本家の暮しの手帖社からも『花森安治のデザイン』(2310円)という本がでた。同誌の表紙原画、本の装丁、カット、手描き文字、新聞広告の版下、それらの下書きなどをあつめたもので、さかんな「手の人」だった花森安治の仕事ぶりが、まざまざとつたわってくる。
 もう一点、やはり2011年にでた『文芸別冊・花森安治』というムック(雑誌形式の本)にも、上記の「君もおまえも聞いてくれ」をふくむ文章やインタビュー記事が10篇、再録されている。その選択ぶりの切れのよさに感心した。早わかりとしては最適だろう。
 これらの本やムックで、花森のひとり娘、土井藍生さんが、父親としての花森についてはじめて語っている。暮しの思想家・花森安治は、じぶんの暮しについて語るのをかたく拒みつづけた人でもあった。その遮蔽(しゃへい)幕を土井さんが開いてくれた。編集長としてだけでなく、家庭人としての花森もなかなかの頑固おやじだったらしいや。

 ◇つの・かいたろう 評論家 38年生まれ。雑誌「考える人」に「花森安治伝」を連載中。『電子本をバカにするなかれ』など。

あさま山荘事件から40年 鈴木邦男さんが選ぶ本

■「連合赤軍化」する現代日本

 あの事件で左翼は終わった。「革命を夢みること」は「犯罪」だと断罪された。それが警察、マスコミ、国民の「総括」だった。では、あの事件をただ忘れたらいいのか。「革命」を取り上げられた、その後の若者は幸せだったのか。あの事件の謎を解くために、あの事件から教訓を得るために、膨大な本が次々と出ている。
 最高幹部として死刑判決を受けた永田洋子の『十六の墓標』は第一級の歴史的資料だが、反省と懺悔(ざんげ)ばかりが目について、つらい。だったら何故あんな事をやったんだ、と叫びたくなる。
 『あさま山荘1972(上下)』(彩流社・各1937円)を書いた坂口弘(死刑判決が確定)は森恒夫、永田洋子に次ぐ幹部だが、粛清を止められなかった。高橋檀(まゆみ)は『語られざる連合赤軍』(彩流社・1890円)でこんな分析をしている。
 「坂口の、自分の思考を言葉で表現することの苦手な、朴訥(ぼくとつ)な性格を考えれば、永田が森の表現力に気持ちを動かされたことは何となく納得出来るのです。表現力というより、状況を素早く言語化してその場の雰囲気をリードしていく森の特性に永田は憧れを感じたのかも知れません」
 極限状況で、森だけが〈言葉〉を持っていたのだ。懲役20年の刑に服して出所した植垣康博は、さらに「森は人の欠点を見つける天才だった」と言う。そこまで見通せる植垣にしても、一兵士としては反対できない。ただ彼の『兵士たちの連合赤軍』は、幹部ではなく兵士だからこそ見える事件の本質を衝(つ)いている。植垣はまた、革命運動に入った時の夢や理想や楽しさについても書いている。

■皆真面目すぎた
 「外からの目」としては米国の社会学者P・スタインホフの『死へのイデオロギー』がある。ドラッグではなく「革命的イデオロギー」でハイになった若者たちを描写し、こう言う。「われわれ全員が、連合赤軍事件のような悲劇の、被害者にも加害者にもなりうるのである」
 そういう事件だった。不思議なことに、途中で山から脱走した人たちは誰も手記を公刊していない。「自分こそが正しかったんだ!」と大声で言えるはずなのに。それよりも、革命運動から脱落したと疚(やま)しさを感じているのか。そう考えると、皆真面目すぎたのだ。
 あるいは、こういう事は革命前夜には、いくらでもあったのか。ロシア革命、中国革命は成功したから、その前の「不幸な犠牲」として悼まれる。しかし日本では革命が成らず、陰惨な事件だけが強調される。
 山平重樹『連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)』(徳間文庫・720円)は、距離感を持って書かれている分、全体像が見える。山平は右派学生運動出身であり、「かつての敵」を、だが「同じ時代」を闘った者として描く。

■夢も希望も愛も
 40年前は、ただの「悪」だったし「犯罪」だった。だが、その中には、革命への夢も希望もあった。愛もあった。〈全て〉があった。それが極端に走ったが故の悲劇だった。若松孝二が映画「実録・連合赤軍」を撮ったのも、山本直樹がマンガ『レッド』(5巻まで刊行中、講談社・各1000~1010円)を描いたのも、そこにひかれたからだろう。
 しかし今、それらは忘れられ、「負の遺産」だけが受け継がれている。閉鎖的、排外主義的で、人の話を聞かず、異なる存在を許さず、感情的に罵倒し、小さな同一性だけを守ろうとする社会。まさに現代は、「連合赤軍化する日本」ではないか。

 ◇すずき・くにお 評論家 43年生まれ。新右翼団体「一水会」顧問。『愛国と憂国と売国』など。

スピノザが来た 鈴木繁が選ぶ本

■危機に強いぞ、高潔な異物

 哲学史の異物。難解かつ分類不可能。そんな17世紀の思想家スピノザの潮がひたひたと満ち来ている。昨年はその名のついた本が次々と刊行された。
 バルフ・デ・スピノザは1632年、ポルトガル出身のユダヤ商人の息子として、チューリップバブル直前のアムステルダムで生まれた。ヘブライ語の研究で才を見せるも、23歳の時「あらゆる呪詛(じゅそ)が、彼の頭上に下らんことを」と宣言され、ユダヤ教会を破門される。
 居を変え、独学で思索を深めて63年に『デカルトの哲学論理』、70年『神学・政治論』を出版する。ところが今度はキリスト教会から「冒涜(ぼうとく)的」と難じられ、神の定義から展開する主著『エチカ』の出版は、77年の没後まで出来なかった。
 その神は、ただただ無限で永遠な存在。顔も慈愛もなかった。経済と科学の先進国だった当時のオランダでさえ「スピノザ的」は侮辱の表現となった。

■我思いつつあり
 昨年秋に出た『宮廷人と異端者』には同時代の大知識人ライプニッツがスピノザの思想に強烈にひかれつつ、世情をおもんぱかって真意を隠すさまが生々しく描かれている。デカルトの信奉者たちもまた「正統性」を主張するため攻撃に回った。
 國分功一郎『スピノザの方法』(みすず書房・5670円)は、近代哲学の祖デカルトと対比して論じた意欲作。
 「我思う、故に我あり」——デカルトの方法は、どんな愚者にも疑いえない「私」の認識から出発する。精神と肉体を分けるその方法論は、科学の発展を支え、近代文明を加速した。
 「我思いつつあり」——スピノザは精神と肉体を分けない。彼の哲学では、方法はたどると同時に出来る道。それは自分の中にある。「誰も自分で考え、その道を見つけるしかない」と國分さんはいう。現代人には、のみ込みにくい方法でもある。
 A・ネグリが『スピノザとわたしたち』(水声社・2625円)で語る「道」は、ザクッと分かりやすい。いよいよ目に見えるものとなった近代の危機を克服すべく新造する道だ。それはマルチチュード(多数者)の力能が「共」を構成することででき、「愛」へと至る。
 05年刊行の新書、上野修『スピノザの世界』は6刷まで版を重ねた。上野さんはネグリと異なり、スピノザの突出したアンチヒューマニズムぶりに注目する。「人間を、神の力のローカルかつ必然的なあり方、と規定したところが面白い」
 神から人間臭さをはぎ取って、ニーチェやマルクスに影響を与え、人間の本質に「衝動」や「欲望」を見て、フロイトに先んじたことは間違いない。独ロマン派からは「神に酔える神秘家」(ノヴァーリス)と、妙な褒められ方をしている。

■つましい暮らし
 底知れぬ哲学の主は、高潔なひととなりが伝えられ、つましい暮らしをレンズ磨きで支えたと言われる。近年、レンズと原始的な撮影装置を介して、画家フェルメールとの交流の可能性が取りざたされてきた。昨年暮れに出た『フェルメールとスピノザ』の著者は、「天文学者」として描かれた人物をスピノザと重ね合わせている。
 一方、振り子実験で知られたホイヘンスとの交流を想定するのは安冨歩『経済学の船出』(NTT出版・2520円)だ。現代の決定論的カオスを取り入れ、「共」を超える「非線形のエチカ」を構想する。
 みんな大胆で積極的だ。これもスピノザの効果か。能動上等。喜び重視。究極のポジティブ思考の人でもあった。

清盛の歴史と文学 田中貴子さんが選ぶ本

■史実とフィクションの間

 放送早々、「画面が汚い」という批判や視聴率の低さがニュースとなった大河ドラマ「平清盛」。それに合わせて、清盛関係の本が続々と刊行されている。「大河ドラマがよくわかる」といった帯の惹句(じゃっく)が氾濫(はんらん)する中で目立つのが、「清盛の『虚像』を剥ぎ『実像』を明らかにする」という趣旨のものだ。ドラマの価値を「史実か否か」で計る視聴者があるゆえ、こうした本が性懲りもなく出版されるのだろう(大河ドラマに「このドラマはフィクションです」というテロップが出されないことも影響していると思われる)。
 歴史上の人物について記述しようとするとき、拠(よ)って立つ学問の枠組みにより立場や方法が異なるのは当然である。ある人物の史実を史料によって構築することと、その人物について伝えられる物語や説話が生まれた過程を追うこととの間に軽重はなく、史実がすべてというのは一面的な見方である。
 たとえば、樋口大祐『変貌する清盛』は現代に至る清盛イメージの変遷を文化研究の方法でとらえようとする。生硬な用語が目立つが、史料だけでは見えてこない部分の重要性が認識される論となっている。

■平家物語離れて
 しかし、清盛についてはここ数年間の歴史学者の本に収穫が多い。清盛といえば『平家物語』の悪人イメージが教科書等を通じて人口に膾炙(かいしゃ)しているが、『平家物語』の呪縛を離れて等身大の清盛を論じようとするのが歴史学者の立場である。
 五味文彦『平清盛』は、清盛出生から最期までを史料に即して記述するオーソドックスな構成なので、清盛の生きた時代を把握するには適切である。ただし、史料が純粋な客観性を保証するとは限らない。何をもって「史料」と認定するかにより、導き出される結論が変わる可能性は十分ある。史実の評価を行うのは後世の学者であり、その尺度は時代によって変転するということを常に意識して読む必要があろう。
 また、清盛の打ち立てた政権が「武力による初めての武家政権」か、それとも「武人による新たな王朝」か、という論争も近年注目されている。40年ほど前までは教科書に載っていた「貴族のまねをして腐敗し破れた平家」と、「東国から雄々しく立ち上がった源氏」という対立の図式はすでに揺らいでおり、武士の始まりを「領地を守るため武装した在地集団」に求める説に疑義を呈する研究者も現れた。

■新たな王朝か?
 その一人が『平清盛 福原の夢』の著者、高橋昌明である。五味と同様に清盛の誕生から死までを叙述しているが、視点はずいぶん異なる。清盛は六波羅幕府という武家権力を立てたが、福原遷都の背後には、清盛の娘が入内した高倉院や孫の安徳天皇を頂き、平家の力がそれを支えるという新たな王朝づくりへのヴィジョンがあったというのである。清盛は武士か公家か? 論争の行方やいかに。
 清盛が内海(瀬戸内海)の海運を掌握し経済的な利益を得たことを福原京と結びつけて論じた点も本書の特色として挙げられるが、海運による平家の経済的発展を小説の形で描くのは、服部真澄『海国記』上下(新潮文庫、品切れ)である。正盛、忠盛、清盛の3代が日宋貿易に関与し、西国からの物品流通を手中におさめることで国家に食い入ってゆくさまが虚実取り混ぜて語られる。

 ◇たなか・たかこ 甲南大学教授(日本文学) 60年生まれ。本紙書評委員。清盛の養母とされる祇園女御についての論を収録した『外法と愛法の中世』など。

吉田秀和の遺産 片山杜秀さんが選ぶ本

■音楽は自立した精神の支え

 昭和初期の日比谷公会堂。吉田秀和は「さる外国のピアニスト」のリサイタルでバッハとシューマンを並べて聴く。初の評論集『主題と変奏』の巻頭に置かれた「ロベルト・シューマン」(1950年発表)はその話から始まる。
 バッハはバロック、シューマンはロマン派。時代も中身も違う。普通はそう思われがち。ところが吉田はふたりに共通のものを発見する。「二つの音楽に同時にふれているうちに、はじめて、ぼくは、ある動かしがたい何かにであったと感じた」
 天才的直観! 切れすぎた感覚と豊かすぎる感情がいきなり溢(あふ)れだし、核心を鷲(わし)づかみにする。若き吉田が親しく交際した中原中也や愛読したランボーの詩、あるいはヴァレリーのエッセイを思わせる。いきなりブスリと奥まで光を届かすフランス的な明察だ。
 ところが吉田はその勢いで走り抜けない。恐るべき閃(ひらめ)きを一瞬炸裂(さくれつ)させたあと、彼はフランス人からドイツ人に豹変(ひょうへん)する。直観が本当か、ドイツのカメラ職人のようにこつこつと石橋を叩(たた)いて渡る。譜例も丹念に使い、いちいち証拠を出して。

■「仏独等距離」で
 森鴎外や西田幾多郎ならドイツ語。永井荷風や小林秀雄ならフランス語。夏目漱石だと英語。彼らは特定のヨーロッパ語のどれかひとつに深入りしながら自らの世界観を鍛えた。が、吉田は10代の頃からかなり自覚的に仏独等距離外交を展開した。両方を深く学び、深く依拠した。吉田が現代日本の突出した文人になった大きな理由だろう。フランス的な軽やかな閃きをドイツ的な重厚な論理で跡づけて倦(う)むことがなかった。クラシック音楽ファンへの本当に啓蒙(けいもう)的なスタンダードな著作でも、そのやり方は貫かれた。『名曲三〇〇選』(ちくま文庫・1050円)でも『世界の指揮者』(同・1365円)でも『世界のピアニスト』でも。
 ところで、吉田が『主題と変奏』で説いたバッハとシューマンの共通性とは? ベートーヴェンの何か革命的な世界を無理無理切り開こうとする高らかな調子とはまったく違ったもの。「一瞬の渋滞もしらぬ万物流転に対する、偉大な確認と肯定」ということになるだろう。「一瞬の渋滞もしらぬ万物流転」とはつまりは日々の暮らしである。一個の人間として日々こつこつやってゆく。

■健常な市民感覚
 もちろん「万物流転」だからといって自分が流されては困る。吉田は徹底的に自立した市民の理想を追い求めていた。他人に惑わされず地に足をつけておのれの暮らしを守ってゆく。大風呂敷は広げない。しかし自分の日常を乱す者には断固抗議する。健常な市民感覚だ。個人主義と自由主義の精神を体現した。そしてそういう精神を日々に保つために、吉田は西洋クラシック音楽を必要とした。オペラも交響曲も大事だけれど、日常に寄り添えるものとなれば暮らしの中でも口ずさめる小さな歌曲である。シューマンやシューベルトやドビュッシーの。
 吉田の最後の大切な仕事が歌曲についての連作エッセイ『永遠の故郷』4部作になったのは偶然ではないだろう。そこにはドイツ歌曲やフランス歌曲が多く取り上げられ、吉田自らの絶妙な日本語訳が添えられている。フランス的軽みとドイツ的重みを等距離で見据えた1世紀近くの人生の総決算にふさわしい。好きな芸術歌曲を口ずさみながら個の自立した精神を守る。誇り高く素敵な一生だった。

 ◇かたやま・もりひで 慶応大学准教授・評論家 1963年生まれ。『音盤博物誌』

ベーシックインカム 山森亮さんが選ぶ本

■全ての人に無条件で所得を

 ベーシックインカム(以下BI)とは、全ての人は生活に足る所得への権利を無条件で持つ、という考え方である。生存権の純粋な形での表現といっても良い。18世紀末に出現した(トマス・ペイン『人間の権利』)。
 19世紀半ば以降、労働の不正義の告発と結びついてBIは要求されてきた。J・S・ミルの『経済学原理』(岩波文庫、品切れ)は、労働意欲を阻害せず、また高い労働生産性をもたらすだろうと、BIを評価している。当時の要求のなかでは、社会に必要な重労働の賃金が低いことを批判し、BI導入によって、そうしたいわゆる3K労働の賃金が上がることが希求された。こうした希求は現代まで連綿と受け継がれている。米の「我々は99%である」占拠運動のなかでもこの要求は聞かれたし、日本では橋口昌治が『若者の労働運動』(生活書院・2625円)のなかで紹介する運動の一部で、2006年ごろからこの要求が聞かれるようになった。また障害者の介助者の運動のなかで「万人の所得保障」が掲げられたりもしている(渡邉琢『介助者たちは、どう生きていくのか』生活書院・2415円)。

■希望、困難、危険
 1960年代後半以降、ケアなどの不払い労働を問題化するフェミニストたちと、福祉権運動との邂逅(かいこう)のなかで、BIが要求された。当時の要求運動の中心にいたのは女性たちだった。『ベーシックインカムとジェンダー』や、「現代思想」2010年6月号(青土社・1300円)の特集「ベーシックインカム——要求者たち」には、今ここの家父長制社会のなかで、この要求を掲げることの希望、困難、そして危険について率直な意見が表明されている。
 大月書店の叢書(そうしょ)〈労働再審〉シリーズには、労働、障害、ジェンダーなどとの関わりでBIを論じる論考がいくつか収録されている。他方で立岩真也、齊藤拓『ベーシックインカム』(青土社・2310円)は、BIの主張は、労働問題への取り組みと切り離されている、あるいは切り離すべきだと論じる。
 日本でBIという概念の普及に貢献しているのは、実は書籍よりもインターネット上の議論ではないかと思う。『働かざるもの、飢えるべからず。』の小飼弾や、山崎元など有力なブロガーたちの議論に触発される形で、多様な議論が展開されている。

■行政のスリム化
 この多様さを要約することなどできないが、行政のスリム化などへの希求が語られることが多いように思う。その背景にある、政府への不信は真剣に受け止める必要がある(ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』日経BP社・2520円)。
 もとより上記で紹介したような要求運動は、60年代以降、政府が福祉受給者の生活に裁量的に介入することへの批判とともに展開されてきた。BIによって、私たちの生活を政府が裁量的にコントロールする度合いを「スリム化」できるからである。
 しかし政府支出の規模や公務員数を「スリム化」できると考えるならば、これはBIと代替できる制度の大きさを過剰に見積もっているのではないか。
 不正義への憤りはときに暴発する。30年代にはベーシックインカム要求者たちの金融資本への憤りが反ユダヤ主義と結びつくこともあった。いま私たちはベーシックインカムとともにどこへ向かうことができるだろうか。

 ◇やまもり・とおる 同志社大学教授(社会政策) 70年生まれ。『ベーシック・インカム入門』。

芸術文化への支援 片山泰輔さんが選ぶ本

■非営利産業として自立促せ

 橋下徹大阪市長が、文楽協会や大阪フィルハーモニー交響楽団への支援カットや、直営吹奏楽団・大阪市音楽団の廃止を打ち出した。国の「事業仕分け」で芸術支援に厳しい評価がなされたことも記憶に新しい。
 そもそも、芸術文化に税金を投入して活動を支えるのはなぜか。チケット購入者にとっての楽しみという私益だけでなく、「都市格」の向上や地域の教育環境充実などといった公益的側面があるからだ。
 逆風ばかりではなく、支援充実への追い風もある。その一つが、芸術助成金の配分を決める専門機関「アーツカウンシル」設置の動きだ。国は2011年度から専門職であるプログラム・オフィサーなどを試験的に配置した。地方でも東京都がアーツカウンシル設置を準備中であり、大阪でも検討が始まった。
 舞台芸術団体の経営が入場料収入だけで成り立ちにくいことは、ボウモルとボウエンが1960年代に『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』(芸団協出版部・品切れ)で示して以来、あまり変わっていない。米屋尚子『演劇は仕事になるのか?』(彩流社・2625円)は日本の演劇界の現状や助成をめぐる問題をわかりやすく解説する。
 商業的に成り立ち、利益をあげる商業演劇のような存在もある。しかし、市場を相手にした営利の娯楽産業と、公益的な使命をかかげて第三者の支援を得ながら活動を続ける非営利芸術団体を混同してはいけない。

■制度輸入に課題
 その点、様々な公益的サービスを民間非営利団体が担ってきた米国の経験が参考になろう。非営利活動助成において重要な役割を果たしてきたのがフォード財団等の助成財団であり、プログラム・オフィサーという職種も助成財団が生み出した。
 ただ、オロズ『助成という仕事』を翻訳監修した牧田東一は「プログラム・オフィサーとは何かという一般的知識のないままに、部分的、特殊的なプログラム・オフィサー制度」が日本に導入されることを危惧する。
 アーツカウンシルもしかり。政治的中立性を確保し専門家が判断する支援を目指した英国のアーツカウンシル(ACGB)を理想化しがちだが、中川幾郎『分権時代の自治体文化政策』は、「一部芸術家とACGB自身が生み出した芸術官僚やアート・アドミニストレーターによる専制の砦(とりで)と化してしまった感がある」と指摘する。
 財団であれ政府であれ、芸術団体が経営に失敗し赤字だから支援するのではない。助成は「パトロン対嘆願者ではなく、お互いを尊重し合える関係にあって初めて有効に機能する」(オロズ前掲書)。公益的使命達成のための組織運営、すなわちアートマネジメントの向上に向けた共同作業であるともいえる。

■「公益」の自覚を
 日本の芸術政策は、公演や展示の本番経費への助成を対象にしてきたが、それを担う芸術団体が非営利企業であり、一つの産業だという視点が欠けていた。補助金づけが産業の自立を阻害する例は多数あるが、補助を打ち切れば自動的に自立できるわけでもない。(非営利)産業としての自立に向けた戦略的支援策こそが求められよう。
 何より重要なのは、芸術団体側が公益という「大義」をもった経営体だと自覚し、マネジメントを向上させることである。20年以上も前に書かれ、寄付等の支援獲得戦略の必要性を説いたドラッカー『非営利組織の経営』は今なお必読書である。

 ◇かたやま・たいすけ 静岡文化芸術大学教授(文化政策) 64年生まれ。著書に『アメリカの芸術文化政策』など。

沖縄復帰40年 戸邉秀明さんが選ぶ本

■学びなおすべき経験と記憶

 いま沖縄では、「そんなに重要ならば本土が基地を引き取ってほしい」と、「県外移設」論が噴き出している。敵対性をあえて強調するぎりぎりのところで発せられた、本土の私たちへの警告であり、新たな関係性の希求でもある。「復帰して何が変わったというのか」、そんな嘆息が漏れるなかで、「復帰40年」などどうして共有できるだろう。記憶の裂け目がそこにある。
 裂け目は、沖縄と本土の間に走るだけではない。沖縄でも、戦争や占領の体験を直接持たない県民がいまや多数を占める。歴史家の屋嘉比収(1957〜2010)は『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』で、沖縄に生まれ育った「特権」にもたれかかる沖縄戦の語り方に警鐘を鳴らし、「非体験者としての位置を自覚しながら、体験者との共同作業により沖縄戦の〈当事者性〉を、いかに獲得していくことができるか」と、戦後生まれの自らに問いかける。そこには、施政権返還や祖国復帰といった「大きな物語」に回収されない、復帰をまたぎ越して続く個人や家族の「小さな物語」を意識的に反芻(はんすう)することで、私たちはあらためて「沖縄人に〈なる〉」のだ、という厳しい自省の念がはたらいている。そこで「沖縄人」とは、出自に拘束されない、記憶のつなぎなおし、学びなおしの共同作業へのよびかけに応える人のことだ。ならば著者の自問は、本土の私たちにもさしむけられているはずだ。

■基地なき未来を
 ではなにを学びなおすか。占領下の無権利状態でも、基地なき未来を求めて人権をひとつひとつ獲得していった戦後沖縄の歩み。それを同時代の62年から72年にかけて活写した新崎盛暉のルポや時評を収める『未完の沖縄闘争』が、格好の手がかりとなる。すでに運動史の古典だが、政局分析に陥らず、農民や女性たちの生活に根ざした独自な取り組みや、基地労働者の文字通り身を切る基地撤去の叫びにこそ学ぼうとする視点の確かさに、あらためて目がいく。とともに、36年に東京に生まれ育った沖縄人が、いかに復帰運動の当事者になっていったかを写しとる貴重な記録でもある。著者は復帰後沖縄に渡り、沖縄戦後史研究の第一人者となるが、住民運動を粘り強く支援する姿勢は今も変わらない。

■「当事者」になる
 つなぎなおすべきは占領下の経験に限らない。復帰後も変わらぬ軍用機の爆音の下で育った子どもたちもいまや親となり、毎日心配しながら基地間近の母校に通う子どもを見送っている。地元紙記者の渡辺豪は、そんな人たちの基地とともに生きざるをえない40年間の暮らしのやるせなさや、爆音に慣れてしまう精神の摩滅の怖さを丹念にすくいあげて、『私たちの教室からは米軍基地が見えます』を書いた。68年に兵庫県で生まれた著者に、復帰前の記憶はもちろんない。だが取材のなかで、全国紙の記者時代に歩いた北陸の原発候補地を思いだし、ふたつの土地の戦後と「切り捨て」の境遇があまりに似すぎていることに驚く。そのとき、戦後の沖縄に刻まれた経験の厚みは、著者の感性を通してあの島々を越えてひろがり、新たに活(い)かされる場をもって息づく。
 重い現実の前で、沖縄について考えることにはためらいがちになる。だが、出自も世代も異なる3人がたどった「当事者に〈なる〉」歩みは、私たちの背中を確かな力で支えてくれる。

 ◇とべ・ひであき 東京経済大学准教授(沖縄近現代史) 74年生まれ。主な論文に「『戦後』沖縄における復帰運動の出発」「沖縄『占領』からみた日本の『高度成長』」など。

太陽へのまなざし 白石明彦さんが選ぶ本

■金環日食目前、話題も熱く

 21日に国内で金環日食が見られ、6月6日には太陽の前を金星が横ぎる。一方、太陽の磁場に異変が生じて地球が寒冷化するかもしれないと、国立天文台などの国際研究チームが4月に発表するなど、太陽をめぐる話題が熱い。本を手がかりに、母なる星へまなざしを。
 「日、蝕(は)え盡(つ)きたること有り」。こんな記述が、推古天皇が亡くなる5日前の628年4月10日、『日本書紀』にあるように、日本人は古来、日食に関心が深い。太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)にこもり、天地が闇と化した記紀神話を、皆既日食の実体験にもとづく伝承ととらえる発想は江戸時代からある。
 こうした古代の天文記録や伝承を現代天文学の知識で読みとくのが古天文学だ。創始者の斉藤国治(くにじ)は『古天文学の散歩道』で推古朝の日食を検証し、飛鳥京では皆既食は見られず、深い部分食だったとしている。
 4月に出た出雲晶子『星の文化史事典』は星に関する世界中の伝承を集め、日食関係も多い。北米先住民のセミノール族はヒキガエルが太陽を食べると考えた。マヤ文明では太陽と月の戦いとされたため、妊婦は日食を見てはいけなかった。

■金星は見えるか
 詩歌や古典芸能に通じた天文学者石田五郎の天文随筆集『天文屋渡世』も味わい深い。1958年に八丈島で金環食を見て、暗くなった空を「青色に灰色をまぜた安いサイダー瓶のような色」と形容した。金環食の15分ほど前から、太陽の右下に金星が輝きはじめたそうだ。
 21日の金環食を天文ソフトでシミュレーションすると、マイナス4・4等級で三日月型より細い金星が太陽の左下にある。
 「昼のお星はめにみえぬ。/見えぬけれどもあるんだよ、」と歌ったのは金子みすゞだが、今回は見えるだろうか。
 それにしても研究チームの発表には驚いた。太陽の活動を支配する磁場は普通、北極がマイナス、南極がプラスといった2極構造だ。ところが観測衛星で精査したら、両極がプラス、赤道付近の2極がマイナスという4極構造になりつつあるとわかった。黒点の数の増減周期も延びている。テムズ川が凍り、御神渡(おみわた)りで有名な諏訪湖の凍結が早まった17〜18世紀の小氷河期「マウンダー極小期」も同じ状況だったと推定される。
 太陽の活動と地球の気候の関係を詳細に論じるのがH・スベンスマルクらの『“不機嫌な”太陽』(恒星社厚生閣・2940円)だ。太陽の活動が衰えると大気中に飛来する宇宙線の量が増え、地表から高さ3千メートル以下の空に雲ができやすくなり、地球は寒冷化するという。
 フィンランドでの観測では、地球に飛来する宇宙線の量が09年に過去45年間で最多となったので、この学説は気になる。
 
■零エネで宇宙へ
 太陽物理学の本でお薦めは柴田一成『太陽の科学』(NHKブックス・1019円)だ。最新の太陽像をわかりやすく解説し、小さな爆発(ナノフレア)やジェットだらけの太陽の姿こそ、あらゆる天体に共通する宇宙の普遍的な性質ではないかと説く。狭い領域にこもらず、宇宙の進化にまで研究の成果を応用する姿勢には敬服する。
 太陽と人類の新たな関係を示唆するのが、宇宙帆船「イカロス」を開発した森治の『宇宙ヨットで太陽系を旅しよう』(岩波ジュニア新書・861円)だ。14メートル四方の帆で1円玉0・1個の重さに相当する太陽光の圧力を受けて加速し、金星の近くまで飛んだ。50メートル四方の帆で木星圏まで行く計画もある。
 省エネどころか、零エネの発想に胸がおどる。

東京の地形を歩く 陣内秀信さんが選ぶ本

■大地から生まれる都市の気配

 「タウンウオッチング」や「路上観察」の言葉とともに80年代に始まり、今やブームが定着した東京の街歩きだが、近年、特異な動きが目を引く。起伏に富む東京の地形に注目し、その特徴と面白さをマニアックに探求する試みだ。超高層ビルが増え、古い建物や路地が消え去るなか、逆に時間を超越して存続する大地の重要性にこだわり、その凸凹地形が生む摩訶(まか)不思議な都市の気配に、東京らしさの神髄を見抜く。抵抗の精神と洒脱(しゃだつ)さを併せもつ独特の都市論だ。

■太古の歴史から
 この道を切り開いたのが、タモリと中沢新一という立場の違う2人の論客なのが興味深い。『タモリのTOKYO坂道美学入門』(2004年)は、坂道の高低差が大好きなタモリが自ら都内の坂道を写真でとり、勾配や湾曲の具合を確かめ、名前の由来等からトポス(場)を描く街歩きの決定版。それが現代東京に隠れた歴史を発見するNHKの人気番組「ブラタモリ」に繋(つな)がり、古地図を手に地形を歩くブームの火付け役となった。
 一方、中沢新一『アースダイバー』(05年)は、宗教、民俗、考古、地質等の学問を駆使し、地形を歩きつつ太古の歴史に誘う。80年代後半に「江戸東京学」が登場し、東京の下の江戸を認識させたが、中沢はさらに下に潜み、見え隠れする深奥の層に迫った。縄文海進で水面が奥まで浸入していた頃の地形を示す「縄文地図」を武器に、後に海が後退して陸化した凸凹の低地や斜面にある湧水(ゆうすい)、神社、墓、池、花街に湿地の猥雑(わいざつ)さ、エロスの気配を感じ、聖と俗の無意識世界を描写して東京の風景を一変させた。
 同様の発想で、地道に独自の調査を続けていた地形こだわり派の面々が、2人に触発されたかのように続々と面白い本を世に出した。松本泰生はタモリの階段への偏愛ぶりをさらに徹底させ、『東京の階段』(日本文芸社・1680円)で東京の名階段126を取り上げ、「異空間」として階段の美しさと楽しさを存分に語る。一方、『「東京」の凸凹地図』は、何万年という長い時間をかけ水の力で地形が形成される仕組みを絵解きした後に、3Dメガネを用いて東京の地形、建物の起伏をリアルに楽しませてくれる。
 03年に「東京スリバチ学会」なる愉快な名の学会を立ち上げ、ユニークな地形探索を続けてきた皆川典久は、今年2月に『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社・2310円)を刊行し、谷を巡ることで都市砂漠のオアシスを発見する喜びを伝授する。地形を歩き凸凹を楽しむ極めつきの本と言える。

■清流の跡たどる
 もう一つ凸凹地形に欠かせないのは川の存在だ。近代化の犠牲となって、暗渠(あんきょ)化し、また埋められた中小河川の痕跡を辿(たど)るマニアックな探索ツアーも隠れた人気を集める。田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたか』(之潮(これじお)・1890円)は、渋谷区内のかつて無数に存在した水路の命運を丹念に追求し、若者で賑(にぎ)わう渋谷の中心部等に、失われた清流の跡を描いて我々の想像力を掻(か)き立てる。これら著者達(たち)の誰もが依拠する貝塚爽平の名著『東京の自然史』(講談社学術文庫・1103円)が、近年の地形ブームの下、文庫本で再登場したのは嬉(うれ)しい。
 凸凹地形が醸し出す気配は、東京の歴史と深く繋がる文化的アイデンティティそのものだ。それを楽しむ術を教えるこれらの本には、同時に、地形の意味を奪い取る巨大開発への文明批評の意図が込められている。

◇じんない・ひでのぶ 法政大学教授(建築史) 47年生まれ。『東京の空間人類学』

タワーを見上げて 橋爪紳也さんが選ぶ本

■ランドマークの誕生寿ぐ

 小説やコミックなど、東京タワーの関連本が話題になったことは記憶に新しい。対して今年は、東京スカイツリーを意識した企画本があいついで出版された。東京ローカルでの「タワー本」の流行である。
 ガイドブックや写真集のほか、タワー全般に関わる蘊蓄(うんちく)を集めた本が目につく。「公認」と、うたった本もある。なかには三浦展の『スカイツリー 東京下町散歩』(朝日新書・1050円)のように、新たなタワーの建設を契機に再評価された押上・向島界隈(かいわい)などを扱う「都市論」も混じる。
 私のような「タワー愛好家」にとって眼福なのは、関係者しか目にしない工事現場の内部を紹介している本だ。

■人格を託す心性
 類書のなかでは『東京スカイツリー』が秀逸だ。軟弱な地盤、かつ余裕のない敷地に、ほぼ直立する状態で高さ634メートルの「超々高層建造物」をいかに建設したか。当初の設計思想まで遡(さかのぼ)り、技術的な解決策を知的に説明する硬派の読み物だ。
 『図解 東京スカイツリーのしくみ』(NHK出版・1575円)も同様の企画だが、こちらは小学校高学年などが対象。巨大なタワークレーンが活躍する現場写真などは、「メカ好き」の子供たちの興味を惹(ひ)きつけるに違いない。
 より低学年の児童には公認絵本『ゆめのスカイツリー』(金の星社・1260円)を推す。谷川俊太郎の文に、じつに楽しい絵が添えられている。エベレストとの背比べ、タワーの子孫がオリンピックに出場するなど、東京スカイツリーが夢のなかで大活躍をする趣向だ。フランスの淑女であるエッフェル塔と比べて、東京タワーを「英国紳士」にたとえたのは設計者である内藤多仲である。タワーに人格(塔格?)を託したい心性は普遍なのだろう。
 もっとも私のお気に入りは、電波塔以外のタワー、すなわち「タワー」と呼ばれる超高層のオフィスビルやマンションを扱う中谷幸司の『超高層ビビル』3部作である。日本編では2008年までに竣工(しゅんこう)した国内の921棟、続く香港・マカオ・深セン・広州・台湾編とドバイ編では、各地の文化や思想を反映した個性的なタワー群を美しい写真で紹介する。タワーと青空とのコントラストが素晴らしい。ビルマニアには座右の大図鑑だ。

■生と死の精神性
 私が建築学科の学生であった30年ほど前、タワーという建造物を語るには、梅原猛の『塔(上下)』(集英社文庫・品切れ)やロラン・バルトの『エッフェル塔』が必読書であった。前者では、信仰を背景に垂直を指向する西洋の塔と、神の宿る「柱」や「木」に由来する日本の塔を比較、わが国の塔には「生」と「死」に関わる精神性が見いだされるという思索が印象的であった。いっぽう後者では、パリにそびえたった鉄塔が、市民から「見られる存在」であると同時に、都市全体を視野に入れる「見る存在」でもあるという二重性を指摘、材料である鉄や工業技術の「神話作用」を論じた。
 タワー論のこれら「古典」に対して、今日のタワー関連書には、その本質的な意味を考究する姿勢は希薄である。技術を礼賛し、ランドマークの誕生を寿(ことほ)ぐばかりだ。もっとも、いずれ時間が経過し、より高いタワーが実現すれば、21世紀初頭のタワー群もまた懐旧の対象となり、文化史的な考察や社会における象徴性の分析が加えられることになるのだろう。

 ◇はしづめ・しんや 大阪府立大学教授(建築史) 60年生まれ。タワー論の本を近刊予定。

日本型福祉の終わり 大野更紗さんが選ぶ本

■「家族の革命」が進んでいる

 肌がひりつくような焦りと不安を、誰しもが感じている。
 震災や原発事故は「わかってはいたが、見ないふりをしてきた」脆弱(ぜいじゃく)性を一気に露呈させた。戦後社会を支えてきた「日本型福祉」。その二本柱である「家族内福祉」と「企業内福祉」の瓦解(がかい)は指摘されて久しい。時間は、とっくに切れている。
 これまでのやり方は、急速にうまくゆかなくなる。途方もない人口動態のインパクトがやってくる。2020年には65歳以上の老年人口は3600万人を突破する。60年ごろにはこの傾向はピークをむかえ、人口の約40%、約2・5人に1人が65歳以上になると予測されている。日本は近代国家が経験したことのない、未知の超高齢化社会をむかえうつのだ。
 デンマーク生まれの社会学者エスピン‐アンデルセンは近年、働き続ける女性のための福祉政策が、経済生産性や格差是正、そして子どもの発育に及ぼす好影響を強調する。彼の講演録『アンデルセン、福祉を語る』は、低い合計特殊出生率と高齢化の加速という、日本のかくも厄介な先行きへの対応に、重要なヒントを示してくれる。

■「非典型」が交錯
 今日、「家族の革命」が進行している。「核家族」は「典型」ではなくなる。「核家族」というユニットの維持に必要な費用を1人で稼げる男性は、残念ながら、もうそう多くはいない。
 「非典型」とされてきた異種が交錯するようになる。結婚しない同棲(どうせい)カップル、単身世帯、ひとり親世帯。家族はゆらぎ、これまで女性が家族内で担ってきた福祉は、民間または公的サービスへの外部化を迫られる。
 財政逼迫(ひっぱく)を理由に公的サービスを減らしても保育や介護のニーズが消えるわけではない。民間に頼れる財力がなければ、結局女性が担うことになる。アンデルセンは、保育や介護のステージに生じる格差を緩和し、全ての女性と子どもを支援する公的サービスの重要性を説く。
 福祉国家研究者の宮本太郎は、震災後に刊行した『弱者99%社会』で各分野の論者と一つのコンセンサスを提示した。
 「男性稼ぎ主」の安定雇用に依存した社会システムは機能不全に至っている。女性の就労率を引き上げ、育児と仕事の両立を支える施策なくして、将来の財源ももたず少子化も防げない。親の経済力の格差は子どもの不平等に直結する。将来への投資として、子どもの保育・教育への支援が求められている。

■少子化の要因は
 濱口桂一郎の『日本の雇用と労働法』は、新卒一括採用、長期雇用、年功序列、企業別組合などを特徴とする「日本型雇用システム」を労働法の観点から解体する。日本型雇用システムはその「メンバーシップの維持」に最重要点がおかれる。メンバーシップ、すなわち「縁」の安定のために、新卒定期採用で入り口、定年制退職で出口を固定している。
 少子化の要因はここにもある。メンバーシップ型雇用のなかで、女性は「家族内福祉の担い手+非正規」になるか、子育てを断念して正規として残るかの二者択一を迫られてきた。阿部彩『子どもの貧困』(岩波新書・861円)は日本のシングルマザー世帯が貧困に陥りやすいことを統計分析で裏付けている。母親の就労率は非常に高いにもかかわらず、経済状況は厳しく、政府からの支援も少ない。繰り返すが、格差や貧困は、次世代に引き継がれる。
 新しい社会へのチャレンジには苦闘と戸惑いが伴う。だがそれを引き受けることなしに、建前以上の「希望」は生まれない。

 ◇おおの・さらさ 作家 84年生まれ。『困ってるひと』

桜と日本人 白幡洋三郎さんが選ぶ本

■なぜ花見をするのか

 桜の季節がやってきた。さあ桜を楽しもう、というのがこの時期この日本で自然な、いつわらざる人情である。そんな桜の楽しみに読書はいかほど貢献できるか。強弁するのではないが、読んでおくと桜とつきあう楽しみが深まる、そんな本はある。
 斎藤正二「日本人とサクラ」(『斎藤正二著作選集5』所収)は「たたき込まれた軍国主義教育の、あの不快な思い出」のせいで好きになれなかったサクラを、「年々、好きになっている」自分を発見して、それを桜観の見直し、桜解釈の発見につないでいったサクラ探究の古典というべき書である。かつての自分とまったく反対の人間類型である「サクラ好き」人間にしてくれた、その「サクラ」を解明する「サクラの社会科学」をめざす。時代を感じさせる言い回しはあるが「うそのない“サクラ観”」による「サクラの未来と日本人の将来」を真摯(しんし)に考え抜いた書。

■「大和心」を問う
 その斎藤正二のアレルギーの元をつくった時代に世に出た山田孝雄『櫻史』は、この時代にこんな発言が可能だったかと、桜と日本人の通説を再吟味したくなる内容だ。著者は全くの独学で各種教員免許状を得て、研究の道に進み国語学の権威となった人。『櫻史』は戦前、昭和16年5月発行。山田孝雄は、当時神宮皇學館大学学長であった。時代は太平洋戦争勃発前夜。この年12月が真珠湾攻撃である。その時期に、日本精神、本居宣長、大和心といった用語が並ぶ桜を論じた一書を世に出した。
 山田は、日本精神を桜に比するとき、道徳や哲学から論じるのは「今の世に歓迎せられるかも知れないが」「賛同し得ない」と、さらりと言ってのけた。
 本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の意味は、朝日に照り映える山桜はじつに美しい、それを美しいなと素直に感じる心が「大和心」だと言ったに過ぎない。宣長自身が門弟にそう言い残したとの証言記録を紹介したのも山田孝雄である。この本は桜についての人文学事典というべき書で、桜の思想、芸術、宗教、文学など、時代も「上古」から「現代」まで、広範囲に筆が及ぶ。

■同じ春もたらす
 日本の春に欠かせない言葉「開花宣言」や「桜前線」は、いつから使われだしたのか。これはソメイヨシノ出現以後に生まれた言葉だ。「ソメイヨシノは日本列島や大日本帝国に同じ春を創りだした」とする佐藤俊樹『桜が創った「日本」』は、幕末に生まれたサクラの園芸品種が、日本の春を一つの桜で覆っていった事情を解き明かす。
 桜とくれば「花見」である。花の観賞は世界中で行われ、植物としてのサクラは北半球に広く分布している。ところがサクラが咲いたからといって飲食を携え、大勢で出かける花見の文化は日本にしかない。ヒマラヤにもヨーロッパにもサクラはあるのに、そして誰もが花好きなのに。これはどうしたことだ。私の長年の疑問である。
 中尾佐助『花と木の文化史』(岩波新書・735円)は、この問いに一部答える見解を出している。「西洋文化の花の美学はだいたい本能的美意識」による。日本では、加えて「学習による文化的美学」がはたらくからだ、と。
 日本人の心を揺さぶる桜、花見は世界を視野に入れて語られるべきものだ。

 ◇しらはた・ようざぶろう 国際日本文化研究センター教授 49年生まれ。『花見と桜』など。

新入社員へ 江上剛さんが選ぶ本

■自分の大義を思い返す

 新入社員の皆さん、おめでとうございます。私は、昭和52年に、旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)に入行し、銀行員として社会人の一歩を踏み出しました。商人であった父は、「銀行員というのは、融資先に対して、感謝を込めて一生、頭を下げて暮らさねばならない」と言いました。父は、お辞儀を通して人から信用、信頼を得ることの大切さを教えてくれたのです。社会人として最も大切なのは人から信用、信頼を得ることです。
 小さな町の洋品店を世界的な流通業に育て上げたセブン&アイ・ホールディングス名誉会長の伊藤雅俊さんは、創業以来、社員に三つの約束を守るように言ってきたそうです。(1)仕入れ先に対して20日締めの月末現金払いをすること、(2)従業員の給料を遅配しないこと、(3)安心安全な商品を売ること、の三つです。

■人との約束守る
 伊藤さんは、どんな苦しい時でもこの三つの約束を守ってきたからこそ今日の隆盛があると仰(おっしゃ)います。社会人として成功するのにMBAや難しい金融理論などは必要ありません。人との約束を守るなど、あたりまえのことをどれだけ命懸けで実行できるかが重要なのです。そのことを気づかせてくれるのが、伊藤さんの『ひらがなで考える商い』や『商いの道』(PHP研究所・1050円)です。ご自分の言葉で易しく説かれている商人道は、心に沁(し)みることでしょう。
 社会人になったら理不尽なことを山ほど経験します。筋を通したり、大義に殉じたりしても正当に評価してくれるとは限りません。
 城山三郎さんは大義に殉じて報われなかった人を主人公にします。『男子の本懐』の浜口雄幸と井上準之助もそうです。2人は、緊縮財政を行い、日本の財政を再建し、軍の台頭を抑えるために金解禁という政策の実現に邁進(まいしん)します。しかし、それが実現した時、不幸にも暗黒の木曜日というニューヨーク証券取引所の株価大暴落に見舞われ、日本も世界も大恐慌に陥ります。その結果、浜口と井上は凶弾に倒れ、金解禁政策も反故(ほご)にされてしまいます。
 城山さんは、大義に殉じた悲運の2人の生きざまを評価します。『落日燃ゆ』(新潮文庫・660円)の広田弘毅も同様です。城山さんは、たとえ悲運であっても大義に生きよと教えてくれます。社会人になったら、妥協に妥協を重ね、いったい自分は何をやっているのか、自分はなんのために働いているのかと迷うことがあるでしょう。そういう時は、是非自分の大義を思い返してください。

■狭い門から入れ
 新入行員の頃、「3日、3か月、3年」と言って自らを励ましていました。通勤は、まるで苦行のように思えました。3日、我慢できれば、3か月は大丈夫だという気持ちでした。通勤鞄(かばん)の中には『新約聖書』を忍ばせていました。私はキリスト教徒ではありませんが、キリストの言葉は、どこを開いても私を勇気づけてくれました。「狭い門から入りなさい」という言葉は、安易な道を選択しようとする私を諫(いさ)めてくれました。
 ある日本の政治家は戦争に行く際、新約聖書を肌身離さず持っていたそうです。戦場という異常な世界で人間らしく生きるためにはキリストの言葉が必要だったのでしょう。あなたもまさに戦場というべき社会に一人の兵士として戦いを挑むわけです。悩み、疲れたとき、キリストの言葉はあなたの糧となるでしょう。

 ◇えがみ・ごう 作家 54年生まれ。『人生に七味あり』など。

概算要求基準 成長を促す事業に絞り込め

 消費税率引き上げを柱とする社会保障・税一体改革関連法の成立で、日本は財政健全化に大きな一歩を踏み出した。
 借金財政から脱却する道筋を示せるかどうか、2013年度予算はその試金石となる。
 政府は、13年度予算の概算要求基準を決めた。
 12年度当初予算並みに、歳出では国債費を除く政策的な経費を71兆円以下、歳入では新規国債発行額を44兆円以下に抑えた。
 そのうえで、日本再生戦略で示したエネルギー・環境、健康、農林漁業の3分野に「特別重点要求」を認め、各府省が従来の事業を見直して削った額の2~4倍を要求できるようにした。
 それ以外の再生戦略関連は「重点要求」として削減額の1・5倍まで要求を認める仕組みだ。
 硬直化した歳出を点検し、成長に配慮して予算にメリハリを付ける狙い自体は悪くない。
 ただ、過去の重点要求では、従来と内容が変わらないものを焼き直すような手法が横行した。
 政府は最大4兆円の要求を想定しているが、府省間で重複した事業を事前調整するなど、要求段階で厳しく絞り込むべきだ。
 最大の問題は、重点配分する予算がどれだけ成長に資するのか、疑問が払拭できないことだ。
 農業予算の効率化が急務であるにもかかわらず、13年度も、ばらまき色の強い戸別所得補償制度に必要な予算を認める方向だ。成長戦略に逆行していないか。
 環太平洋経済連携協定(TPP)への参加を前提に、農業の体質強化につながる事業に重点配分しなければならない。
 再生可能エネルギー関連についても、効果の乏しい事業には予算を大盤振る舞いすべきでない。
 概算要求基準が、公共事業費の1割カットなど、通常予算の削減を求めたのは妥当だろう。
 焦点は、社会保障費の伸びをどう抑えるかである。
 高齢化の進行に伴い、13年度予算では、現行制度を維持するだけで前年より8000億円増える。社会保障費を聖域扱いせず、受給者が急増している生活保護費の抑制など切り込みが求められる。
 政治主導を掲げて民主党政権が臨んだ過去3回の予算編成は、政権公約に固執して歳出カットは進まぬ一方、借金は増えた。予算規模は年々膨らむばかりだ。
 13年度予算も、衆院選を意識した歳出増圧力が強い。今度こそ、膨張型から抑制型へ、予算構造の修正を図るべきである。

社会保障改革―孫の顔を思い描けば

 年金生活を送る皆さん。
 お盆で、久しぶりに子どもや孫の顔をみて喜んだ方も多いのではないでしょうか。
 でも、子育て真っ最中の息子や娘から「いまの年金は高すぎる。私たちは損ばかり」とか、「病院に行ったら、窓口負担をもっと払って欲しい」と言われたら……。
 「私たちも苦労したし、保険料はちゃんと払った。年金や医療を受ける権利がある」とやり返したくもなる。険悪な雰囲気になるのは間違いありません。
 いま、日本社会はそんな難しい局面にあります。
 高齢者に厚く、現役世代に薄い日本の社会保障は、少子高齢化が進むなかで見直さざるをえません。世代間でどうバランスをとればいいのでしょう。
 国会で消費税の増税が決まった後、「社会保障の効率化や切り込みが不十分だ」という意見が目立っています。
 年金を引き下げたり、支給開始年齢を遅らせたりする。医療費では、1割に据え置いている70~74歳の窓口負担を法律通り2割にする。いずれも政府内で検討されたのに、法案には盛り込まれませんでした。
 政治家が、有権者としてパワーを持つ皆さんの反発を恐れているからです。物価が下がった時に据え置いた年金を本来の額に戻す法案すら、実質的な審議に入れないままです。
 年金額の引き下げや窓口負担増に敏感になるのは、よくわかります。もう自ら働いて稼ぐのは難しい。病院に通う回数も多くなりますから。
 しかし、子や孫の生活も考えてみましょう。リストラや給与削減、住宅ローンや教育費で苦しんでいないか。その割に税金や保険料の負担が重くないか。国の借金をこれ以上増やすと、孫の世代に大増税が必要になるのではないか――。
 「しょっちゅう、小遣いを渡している」だけでは、社会全体には広がりません。
 むろん、生活が苦しいお年寄りがいます。高齢者世帯の1割は貯蓄がゼロで、生活保護を受ける4割は高齢者世帯です。
 一方で、1割は3千万円以上の蓄えがあり、土地などの資産を持つ人も多いのです。
 裏返せば、年齢だけで一律に医療の窓口負担を軽くしたり、保険料を低くしたりすることは理屈に合いません。
 まずは自分たちの負担分を少しでも増やす。そのうえで、年齢にかかわらず所得と資産に応じて負担し、必要な給付は受けられるような制度にする。そう進むべきだと思いませんか。

油症救済法―超党派の動きを生かせ

 国内最大の食品公害とされるカネミ油症事件をめぐり、国会議員が超党派で被害者救済法案の提出をめざしている。だが審議の見通しが立たない。
 政局の混迷で必要な法律ができないのは困る。「今国会が最後の機会」と訴える被害者の叫びにこたえなくてよいのか。
 福岡、長崎両県を中心に西日本一帯で1968年に、北九州市のカネミ倉庫がつくった食用油を食べた人々が皮膚や内臓の疾患や、がんに苦しんだ。
 製造過程でポリ塩化ビフェニール(PCB)が混じり、加熱されて猛毒のダイオキシン類が発生したためだ。これがカネミ油症事件である。
 被害者は約1万4千人にのぼるが、認定患者は今年3月末現在で約2千人、うち生存者は1370人にすぎない。
 認定されても、カネミから23万円の見舞金と医療費の一部補助があるだけだ。しかも効果的な治療法はいまだにない。
 被害者らはカネミや国を訴えたが、87年に最高裁で和解が成立し、国への訴えは取り下げられて終結した。
 裁判当時はPCBが原因と考えられていたが、その後、ダイオキシンを直接食べた被害事件とわかった。ダイオキシンの摂食による食品公害事件は、世界でも例がない。
 カネミは経営難で資力がないとして、和解で確定した約200億円の賠償金さえ支払いを怠り続けている。
 そんな事情を考えれば国も救済に乗り出すべきではないか。公的支援を求める被害者の訴えに民主、自民、公明などの50人近い国会議員たちが法制化にむけ足並みをそろえた。
 法案は、救済策を定めて実施することを国の責務とする。
 具体策として、国が健康実態調査を毎年して、それを受けた認定患者らに国とカネミが協力費などの名目で1人あたり年間24万円を支給する案だ。
 支援充実に向けて「3年をめどに見直す」との規定も盛り込まれるという。
 ただ、被害者が求めた国による医療費の直接負担は、見送られた。医療費はカネミが払う仕組みは残し、代わりにカネミへの経営支援策を広げる。
 厚生労働省は「油症は食中毒事件で、原因企業による救済が原則」の姿勢を変えていない。
 被害者が求めるのは、被害者をもれなく救済することだ。そのためには、認定基準の全面的な見直しも課題になる。
 被害発生から44年。被害者がやっと引き寄せた救済の好機を国会でつぶしてはならない。

社会保障会議 終盤国会で設置の道筋つけよ

 持続可能な社会保障制度に改善するため、現実的な論議を速やかに始めるべきだろう。
 民主、自民、公明3党が合意した「社会保障制度改革国民会議」のことだ。近く施行される社会保障制度改革推進法の規定は、会議の設置期間を施行日から1年以内としている。
 ところが、自民党内から、会議設置は衆院選後に新政権が行うべきだ、との声が出ている。
 会議の構成という入り口を巡っても、学者ら有識者だけの組織とするのか、政党代表者も加わるのか、決まっていない。調整は難しいだろう。中身の議論の時間を確保するためにも、今国会中に発足への道筋をつけるべきだ。
 国民会議で議論になるのは、政府・民主党が先の衆院選で政権公約(マニフェスト)に掲げた「新年金制度の創設」と「後期高齢者医療制度の廃止」の扱いだ。
 民主党の主張には無理があるものの、自公両党との一致点を足掛かりにすれば、建設的な議論につなげることは可能ではないか。
 新年金制度については、民主党はかつて「全額税方式」と喧伝(けんでん)していたが、今は「保険料を財源とする共通年金が制度の主役」と修正した。保険料方式の現行制度を改良すべきだと主張する自公両党と基本線は一致してきた。
 ただし、共通年金を補完する月7万円の「最低保障年金」を提唱している。これを税財源で賄うと消費税率をさらに最大7・1%引き上げる必要がある。
 厳しい財政事情を踏まえれば、その実現性は極めて乏しい。国民会議では、現行制度を改善する議論に集中すべきではないか。
 後期高齢者医療制度について民主党は、「廃止して新制度を作る」と主張している。その「新制度」は、後期高齢者の医療費を財政上は別枠とし、都道府県単位で膨張抑制に取り組む、とする。現行制度と共通した考え方だ。
 「後期高齢者」という名称への感情的反発が和らいだことも勘案すれば、あえて廃止してまで制度を見直す必要はあるまい。求められているのは、より良い改善策を探る議論である。
 国民会議の重要な検討課題はむしろ、制度の効率化だろう。1割に据え置いている70~74歳の医療費窓口負担を本来の2割に戻すなど、適正な負担を求めて、費用の膨張を抑える必要がある。
 社会保障制度への信頼を揺るぎないものにする責任は、民自公3党が共同で負っていることを忘れてはならない。

2012年8月18日土曜日

予算編成―政権の覚悟が見えない

 来年度予算編成のスタートとなる概算要求基準が閣議決定された。
 消費税率を段階的に10%へ上げることを決めたばかりだ。増税への国民の理解を得るには、経済の活性化を促しつつ、無駄な歳出を思い切って削る予算改革が欠かせない。
 ところが、要求基準にはその覚悟が一向に見えない。
 今回の目玉は、7月に策定した「日本再生戦略」に基づく特別重点要求枠だ。各省庁に一定割合の予算削減を求めつつ、エネルギー・環境、健康、農林漁業の3分野では、合わせて最大4兆円の要求を認め、査定でメリハリをつけるという。
 民主党政権は、これまでの予算編成でも「元気な日本復活」などの特別枠を設けてきたが、省庁が既存予算を様々な理屈をつけて紛れ込ませ、予算削減の抜け道になってきた。こうした失敗をどう防ぐのか、肝心な点があいまいなままだ。
 前年度から10%減とされた公共事業にも抜け道がある。
 一般会計とは別建てで、上限なく要求できる大震災復興特別会計である。今年度予算にも昨年度の補正予算にも、被災地の再建とは直接関係のない事業が入っている。
 民主、自民、公明3党は「防災」を旗印に公共事業の拡充を求めており、「復興」「防災」の拡大解釈が心配だ。
 一般会計の3割を占め、最大の支出項目である社会保障費は「聖域視せず、最大限の効率化を図る」と明記した。社会保障も例外にしないのは当然だ。
 ただ、生活保護の見直しを掲げる一方、70~74歳の医療費の窓口負担を今の1割から本来の2割に戻すことについては先送りした。選挙で反発を受けそうな分野を避け、削りやすいところだけを削る姿勢では効果が薄い。必要な予算まで減らすことにもなりかねない。
 予算全体を見渡せば、借金まみれの構造が来年度も続くことになる。新たな国債発行額の目標は今年度並みの「44兆円以下」で、国債費(過去に発行した国債の元利払い費)の2倍程度となりそうだ。つまり、返した借金の倍以上を新たに借金する異常な姿である。
 政府の試算によると、基礎的な財政収支は、消費税率を2015年に10%に上げても、年に15兆~16兆円の赤字が残る。
 増税だけでは、財政は安定しない。民主党政権は、マニフェストに掲げた予算の全面組み替え・財源捻出が果たせていないことを、どれほど自覚しているのだろうか。

大阪教研集会―市教委は判断を改めよ

 組合への便宜供与になるので学校は貸せません――。
 大阪市教職員組合(大阪市教組)が年に1度の教育研究集会を開くため市立小学校を借りようと申請したら、市教育委員会が不許可とした。労使関係に関する条例で、組合への便宜供与を禁じているという理由だ。
 市教組は約40年前から学校で教研集会を開いてきた。
 公立校の先生ら約300人が集まり、授業の実践例や研究内容をやりとりする。昨年は性同一性障害の生徒と向き合った先生の報告や、障害児教育などが紹介された。
 組合の集会といっても目的は先生の自主研修である。組合員以外の先生も参加でき、現に非組合員の人も参加している。
 条例は「適正かつ健全な労使関係の確保」が目的だ。他の先生の取り組みを知り、日々の教育に生かす。こうした集会は、市が一線を画そうとする組合活動とは違うと解釈すべきだ。
 市教委は集会の内容に向き合い、判断を改めてほしい。
 条例は、職員の政治的行為制限条例とともに今月施行された。労使関係の厳格化をめざす橋下徹市長が提案し、大阪維新の会などの賛成で成立した。
 大阪市では昨年の市長選で、職員が選挙ビラを配っていたことなどが発覚して、第三者調査チームが不適切な活動の事例を調べた。
 人事への組合の関与や、事務所の格安貸与などが問題化したが、研究会のような仕事のスキルを伸ばす集会に部屋を提供することは問われていない。
 市は区民センターを有料で借りることは認めるという。だが音楽室や理科室が必要な発表もある。何より、子どもの教育を考える先生の集会を学校で開くことに何の問題があるだろう。
 約40年間、市教委が学校を提供してきたのも、その意義を認めていたからではないか。
 多様な教え方を報告しあい、先生が研鑽(けんさん)を積むことはむしろ奨励すべきことである。
 かつては広島県呉市と教職員組合との間で、教研集会の会場に公立学校を使うことの可否が法廷で争われた。最高裁は使用目的は相当として、06年に呉市の敗訴が確定した。
 判決は教研集会について述べている。「教師や学校単位の研究や取り組みの成果が討議され、結果が教育現場に還元される。教員らによる自主的研修としての側面もある」
 先生たちが身につけた力を生かすためには、組合の方も、集会が教育力の向上に結びついているか自己点検してほしい。

不法入国者送還 「尖閣」管理へ海保の拡充を

 尖閣諸島を安定的に維持・管理するため、政府は、海上保安庁の警備体制の拡充に一層努めるべきである。
 魚釣島への不法上陸事件で、政府は、出入国管理・難民認定法違反容疑で逮捕した香港の反日団体活動家ら14人を強制送還処分とした。公務執行妨害などの重大な法令違反はない、として司法手続きは見送った。
 やむを得ない対応だが、これで幕引きとはなるまい。
 香港などの反日団体は、資金力を高め、活動を活発化させる公算が大きい。中国国内の反日デモも拡大しかねない雰囲気がある。
 政府は中国側に、こうした民間団体の挑発行為を放置しないよう改めて強く求めるべきである。
 藤村官房長官は記者会見で、再発防止策について「関係閣僚で迅速に対応していく」と述べた。政府内で、何が問題なのか認識を共有し、不法行為を速やかに排除できる体制を整えねばならない。
 今回のような事件がエスカレートすれば、中国政府が前面に出てくることも懸念される。
 中国は、周辺国と領有権を争う南シナ海において、まず漁船を出漁させ、これを保護する名目などで漁業監視船や巡視船、軍艦を投入し、実効支配を広げてきた。
 尖閣諸島を含む東シナ海は事情が異なるが、中国に同様の手法を取らさぬよう警戒が必要だ。
 中国は、2020年までに巡視船を520隻へ倍増する方針だ。一部は東シナ海に配備される。
 これに対し、海保の巡視船艇はスクラップ・アンド・ビルドが原則で、計約360隻体制からの大幅増は困難だ。海保が、中国海洋当局に質、量ともに(りょう)()される事態も否定できない。計画的拡充を検討すべき時期に来ている。
 その際、自衛隊の防衛大綱や中期防衛力整備計画のように、海保が中長期的な装備導入計画を策定することも考慮してはどうか。
 野田首相は7月の衆院本会議で尖閣諸島などへの不法行為があった場合、「必要に応じて自衛隊を用いることを含め、政府全体で毅然(きぜん)として対応する」と語った。
 自衛隊は、中国海軍の増強を踏まえ、南西諸島の警戒体制の強化を急ぐ必要がある。
 尖閣諸島を共同防衛の対象とする米軍の存在も重要である。
 米海兵隊の新型輸送機MV22オスプレイの沖縄配備は、緊急時の海兵隊の機動力を高め、尖閣諸島の防衛にも資する。今回の事件はその必要性を再認識させたのではないだろうか。

「竹島」提訴へ 日本領有の正当性を発信せよ

 竹島に関する日本の領有権の正当性を広く国際社会に訴え、認知させる意義は大きい。
 政府が、竹島問題を国際司法裁判所に提訴する方針を発表した。
 近日中に日韓両国による共同付託を韓国に提案し、韓国が応じない場合は、日本単独で提訴する方向だ。
 藤村官房長官は「国際法に基づき、冷静公平かつ平和的な紛争解決を目指す。韓国が自国の領有権主張が正当と考えるなら、提案に応じるべきだ」と強調した。
 韓国は従来、付託を拒否しており、今回も応じない方針だ。国際司法裁の紛争解決は当事国双方の同意が前提のため、裁判が開廷する見通しは立っていない。
 だが、提訴を通じて、竹島が韓国に不法占拠されている現状や、韓国の主張の不当性が国際社会に認識されよう。日本は粛々と手続きを進めることが大切だ。
 竹島をめぐる過去の経緯を振り返れば、日本は、17世紀半ばに領有権を確立し、1905年には島根県への編入を閣議決定した。
 大戦後のサンフランシスコ講和条約でも、日本が放棄すべき地域から竹島は除外されていた。
 ところが、韓国は条約発効直前の52年、当時の李承晩大統領が公海に国際法違反の「李承晩ライン」を設定して竹島を取り込み、それ以降、不法占拠を続けている。
 竹島は歴史的にも国際法上も日本の領土であると、政府は折に触れて主張していく必要がある。
 現在の混乱を招いた責任は、ひとえに、竹島訪問を一方的に強行した李明博韓国大統領にある。
 内政面で苦境にある首脳が、日本との歴史認識や領土の問題を持ち出し、国内のナショナリズムに訴えて人気取りを図るのは、韓国歴代政権の常套(じょうとう)手段だった。
 だが、今回の李大統領の行動は、その後の「天皇謝罪」要求発言と合わせて、格段に罪深い。韓国側はそれを自覚すべきだ。
 日本側は、さらなる対抗措置として、日韓の首脳会談や政府間協議の延期を検討している。安住財務相は、金融危機時に外貨を融通し合うための日韓通貨交換(スワップ)協定の融資枠を縮小する可能性を否定していない。
 当面、日韓関係の停滞が続くのは避けられまい。
 関係悪化のツケは結局、日韓両国に回ってくる。北東アジアの安全保障問題でも、日韓の足並みの乱れは北朝鮮を利するだけだ。
 日韓関係が決定的に悪化しないように、政府間で冷静に対話を重ねることも重要である。

2012年8月17日金曜日

第1次大戦から 山室信一さんが選ぶ本

■帝国の総力戦が与えた衝撃

 第2次世界大戦の終結から67年、そして2年後に第1次大戦の開戦百周年を迎えようとしている夏。「未完の戦争」として第2次大戦につながり、ロシア革命を生んだ第1次大戦への関心が国内外で高まっている。総力戦となったがゆえに近代世界のあり方を決定的に変え、「破局の20世紀」の発端となった第1次大戦。果たしてそれは、二つの大戦と冷戦を経た三つの戦後を迎え、しかし今なお「戦時」が絶えない現代世界に生きる私たちにいかなる問いを突きつけているのだろうか。
 この日本人になじみの薄い戦争については、J・J・ベッケールとG・クルマイヒの『第一次世界大戦』上・下(岩波書店・各3360円)が貴重な成果として訳出された。しかし、仏独両国における歴史認識の共有という使命感を強く反映した本書では、第1次大戦はあくまで「ヨーロッパ大戦」とみなされている。
 他方、開戦直後の1914年8月、日本人はこの戦争をいち早く「世界大戦」と名づけていた。そこにはこの戦争が日米戦争につながるという意識が働いていたが、アジアやアフリカの人々も巻きこんだ戦争を「ヨーロッパ大戦」と限定してしまうことには、やはり無理があろう。

■認識上の「空白」

 それではアジアの人々は、いかに第1次大戦に係(かか)わったのだろうか。その認識上の空白地帯となっていた東南アジアにおける二つの大戦と三つの戦後の意味を、多様な領域概念と統合形態をもったマンダラ国家から国民国家への展開過程に重ねて描いたのが、早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』である。ここでは細かな史実の断片を丹念に突きあわせることで、領域概念の流動性ゆえにナショナルな地域性が「世界性」につながっていく意味が明確に示されている。そして、この東南アジアにおける日本人の戦争・占領体験を、現地の人々の眼差(まなざ)しと交錯させながら、語りと回想によって再現した中野聡『東南アジア占領と日本人』(岩波書店・2940円)は、帝国日本が拡張を契機に自壊していく逆説を浮かびあがらせている。
 もちろん、二つの大戦が「世界性」をもったのは、それが帝国間の覇権競争であったからに他ならない。その「帝国の総力戦」がいかに戦われ、戦争が本国と自治領・植民地などの重層する帝国空間にいかに衝撃を与えていったのかを分析したのが『20世紀の戦争』に収められた木畑洋一の第1次大戦に関する論説である。この本には野戦郵便から戦争における主体性とは何かという問題に迫る小野寺拓也、自衛隊の兵器体系と現代戦の特徴を分析した山田朗の論説など、注目すべき力編が並んでいる。

■一国史を越えて

 さらに、木畑の「帝国の総力戦」という問題提起をうけて、第1次大戦以後のオーストラリアとカナダにおける戦争記憶の再生産が、帝国的統合と国民国家的自立という二つの方向でいかに作用したのか、またそれがどのように現代の多文化主義につながったのかを動態的にとらえたのが、津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国』である。
 これらの一国史を越える視点に加えて、戦争への主体的参加を促す「戦争文化」という新たに提起されている概念と非戦思想とのせめぎ合いなど様々な問題を考え併せることによって、私たちは一歩ずつではあれ、戦争についてより確かな認識に近づくことができるのかもしれない。

 ◇やまむろ・しんいち 京都大学教授(法政思想連鎖史) 51年生まれ。『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』『日露戦争の世紀』など。

方丈記800年 荒木浩さんが選ぶ本

■大震災と交差する災厄描写

 爆弾犯が山小屋で漱石全集の『草枕』に読み耽(ふけ)る……。奇妙な設定が気になって「モンスターズクラブ」という映画を観(み)た。『草枕』を愛読したグレン・グールドの逸話に倣ったと豊田利晃監督は語り、鴨長明のような世捨て人のイメージもヒントになったという。偶合(ぐうごう)に少し驚く。『草枕』には『方丈記』の影響が感知されるからだ。
 漱石は帝大生時代に『方丈記』を英訳した。ただし五つの災害(五大災厄)については、大火と辻風(つむじ風)を訳すだけ。以下の都遷(うつ)り・飢饉(ききん)・大地震の章段は不要だとあっさり省略して、「すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)とのはかなくあだなるさま」から翻訳を再開する。『草枕』巻頭を彷彿(ほうふつ)とさせる一連が始まるところである。

■多様なテクスト

 『方丈記』伝本の中にも災厄の描写を欠くものがある。その代表が「略本」と分類されるテクストである。ちょっと比べてみようか。そんな時には簗瀬(やなせ)一雄の『方丈記 現代語訳付き』が文庫ながら諸本を集め、基本資料を網羅した小百科として便利。平易な訳解本には食傷気味、原文に即して自分の解釈がしてみたい。ならば「鴨長明自筆」とメモされた古写本大福光寺本の写真を市古(いちこ)貞次校注『新訂 方丈記』(岩波文庫・567円)で参照し、佐竹昭広ら校注の新日本古典文学大系『方丈記 徒然草』(岩波書店・4410円)と読み合わせてみよう。佐竹『閑居と乱世』(平凡社選書・2940円)も必読だ。
 ところで昨年、『方丈記』の名前は新聞各紙のコラムに躍った。『方丈記』末尾に誌(しる)された建暦二年(一二一二)から八百年、というメモリアルの前年だからではない。東日本大震災という悲劇と交差したためである。今年もまた竜巻が、辻風の描写を引き寄せる。
 だが辻風は治承四年(一一八〇)、大地震は元暦二年(一一八五)で『方丈記』執筆時とはおよそ三十年を隔てる。災害をめぐる『方丈記』への言及は、とかく心情的実感的になりがちだが、当時の被害の様相は、史料を正確に分析し、諸データと対比して立体的に把握したい。北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館・4410円)は諸学融合の通史で、その一助となる。また地震学と歴史学とを結ぶ研究成果として石橋克彦を中心に構築された「[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)」が公開中。研究メンバーの歴史学者高橋昌明の『方丈記』論は「文学」第13巻・第2号(岩波書店・2100円)の「方丈記八〇〇年」特集号で読める。
 『方丈記』は京洛という都市の文学でもある。古代の京都と災害の歴史も頭に入れておきたい。西山良平・鈴木久男編『古代の都3 恒久の都平安京』は読みやすい手引だ。同書で災害を論じる北村優季(まさき)は『平安京の災害史』(吉川弘文館・1785円)をまとめ、『方丈記』をいくどか話題に出す。

■高度なユーモア

 『方丈記』の五大災厄を現世の混沌(こんとん)になぞらえて慨嘆する伝統は、応仁の乱を重ねる室町期の僧心敬(しんけい)にさかのぼるが、現代では堀田善衞『方丈記私記』が屈指だろう。だが堀田は、ちくま文庫版付載の五木寛之との対談で、長明の「高度なユーモア」と「皮肉」を強調し、「ユーモアが?」と五木の意表を突く。無常迅速、災厄の末世をなげき愚痴るばかりでなく、時に斜めから見て、繊細な微笑とゆとりを忘れぬ都人の精神。『方丈記』読解の重要な視点である。

 ◇あらき・ひろし 59年生まれ。『説話集の構想と意匠』『日本文学 二重の顔』など。

ロンドン五輪 清水諭さんが選ぶ本

■巨大イベントの将来議論を

 3度目のロンドン・オリンピックが開幕した。1908年はローマが2年前に返上したため急遽(きゅうきょ)ロンドンが引き受け、英仏博覧会の一角で行われた。2度目のロンドン大会は48年。戦後間もない中、大空襲を免れた施設を改修し、ウェンブリー・スタジアムで開会式が行われている。2004年に発表された『ロンドンプラン』(ケン・リビングストン編、ロンドンプラン研究会訳、都市出版・5000円)は、民営化によって抜け落ちてしまう公共交通や住宅開発ほか雇用、教育、環境の問題を大ロンドン市が長期的展望の中でデザインしたもの。オリンピック招致を契機にして開発の遅れた東ロンドンを再開発する戦略が示されている。
 日本代表選手団にとって、嘉納治五郎を団長に三島弥彦(陸上・短距離)と金栗四三(しぞう)(マラソン)が1912年、ストックホルム大会に初参加してから百年。坂上康博、高岡裕之編著『幻の東京オリンピックとその時代』は、幻に終わった40年と、64年の二つの東京大会を歴史的に追っている。関東大震災によって壊滅的な打撃を被った東京の復興を記念して、永田秀次郎市長(当時)はオリンピック招致をもくろむ。しかしながら、競技場選定問題などで大日本体育協会と東京市の確執は決定的になっていく。湾岸埋め立て地か明治神宮か、あるいは駒沢ゴルフ場(現・駒沢オリンピック公園)かの論議は、陸軍ほか関係省庁の思惑と無理解が重なって難航した。この著作は、戦時体制と建国二千六百年祝賀の中、政府、地方自治体、メディア、そして市民がオリンピックによる都市構築をどのように考えたのかを詳細に述べている。

■進むビジネス化
 オリンピックの基本理念はオリンピズムと呼ばれる。それは「均衡のとれた総体としての人間を目指す」人生哲学で、「人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会」の推進を目標とする。J・パリー、V・ギルギノフ『オリンピックのすべて』は、この思想と教育的意味を読者が学べるテキストとして編集した。オリンピック開催の諸条件、政治的介入、ドーピング、環境問題のほか映画について述べ、オリンピックを批判的に論じる力(オリンピック・リテラシー)の習得を目指している。
 小川勝『オリンピックと商業主義』は、オリンピックの「価値や質よりも優先された利益」について、大会ごとの収支、組織委員会と企業との権利・契約関係の歴史的経緯を明らかにし、国際オリンピック委員会(IOC)、大会組織委員会、国際競技連盟などにテレビ放映権料や協賛金がどのように分配されているのかを述べている。ビジネス化が著しく進む中で、オリンピックの意義を再検討するために必要な好著である。

■何の、誰のためか
 オリンピックの中心は何と言ってもアスリートだ。渡正(わたりただし)『障害者スポーツの臨界点』(新評論・3360円)は車椅子バスケットボールを行うアスリートたちの日常を追いながら、彼ら自身が障害とスポーツの実践とをどのように解釈しているのかを聞き取り、「障害者スポーツ」として一括(ひとくく)りしがちな中にある多様性を認識する必要性を述べている。
 オリンピックは、何のための、そして誰のための大会なのか。2020年大会開催地の決定が来年に迫る中、この巨大イベントのもつ多様な側面とその将来を議論するときにある。

 ◇しみず・さとし 筑波大学教授(スポーツ社会学) 60年生まれ。編著に『オリンピック・スタディーズ』、著書に『甲子園野球のアルケオロジー』など。

時事問題

注目の投稿

もんじゅ廃炉のコスト監視を

 廃炉が決まっている高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)について、運転主体の日本原子力研究開発機構が計画をまとめ、原子力規制委員会に申請した。  2018年度に核燃料の取り出しを始め、47年度まで30年かけて撤去する。費用は3750億円の見込みで、通常の原子力発電所の廃炉に比...

このブログを検索

Google News - Top Stories

ブログ アーカイブ